稲乃比売神社。寄居町鉢形の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

稲乃比売神社。延喜式内社に比定される社、旧氷川社

稲乃比売神社の概要

稲乃比売神社は、寄居町鉢形にある神社です。稲乃比売神社の創建年代等は不詳ながら、当地は男衾郡八郷の内の「榎津郷」に比定され、また渡来系氏族「壬生吉志」氏の在所だったことから、「三代実録」の貞観17年(875)条に記載されている稲聚(いなつめ)神が祀られたのではないかと推定されています。壬生吉志氏は、寺内廃寺(江南町)の造営や武蔵国分寺の七重塔再建など、古代武蔵の有力豪族です。また、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「稲乃売神社」に比定されています。その後鎌倉期以降についての由緒は不詳ながら、江戸期には氷川社と称し、木持村の鎮守として祀られていましたが、明治維新後の王政復古を機会に社号を稲乃比売神社と改称しています。

稲乃比売神社
稲乃比売神社の概要
社号 稲乃比売神社
祭神 稲乃売神
相殿 -
境内社 三島・市杵島・天神・疱瘡・稲荷合殿
祭日 春祭り4月3日、秋祭り10月18日
住所 寄居町鉢形2336
備考 -



稲乃比売神社の由緒

稲乃比売神社の創建年代等は不詳ながら、当地は男衾郡八郷の内の「榎津郷」に比定され、また渡来系氏族「壬生吉志」氏の在所だったことから、「三代実録」の貞観17年(875)条に記載されている稲聚(いなつめ)神が祀られたのではないかと推定されています。壬生吉志氏は、寺内廃寺(江南町)の造営や武蔵国分寺の七重塔再建など、古代武蔵の有力豪族です。また、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている「稲乃売神社」に比定されています。その後鎌倉期以降についての由緒は不詳ながら、江戸期には氷川社と称し、木持村の鎮守として祀られていましたが、明治維新後の王政復古を機会に社号を稲乃比売神社と改称しています。

新編武蔵風土記稿による稲乃比売神社の由緒

(男衾郡木持村)
氷川社
村の鎮守なり、相傳ふ【延喜式】神名帳に載る處の當郡三座の内、稲乃賣神社なりといへど、慥なる證跡なし折原村神主相馬播磨持、(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による稲乃比売神社の由緒

稲乃比売神社<寄居町鉢形二三三六(鉢形字氷川台)>
当地一帯は『和名抄』に載る男衾郡八郷の内の「榎津郷」に比定される地で、渡来系氏族「壬生吉志」氏の在所であった。
当社はこの榎津郷に祀られた『延喜式』神名帳登載の「稲乃売神社」であると伝える。『地理志料』では、「稲乃売神」と『三代実録』貞観十七年(八七五)十二月の条に載る「稲聚神(いなつめ)」が同神で、更にこの「稲聚」の音と旧郷名「榎津(えなつ)」の音が通じることから、当地に稲乃売神社が祀られたと推測している。
古代の祭祀は、『類聚三代格』の承和八年(八四一)五月条に「男衾郡榎津郷戸主外従八位上壬生吉志福正」とあることから、壬生吉志氏が行った可能性がある。恐らくこの時期、福正が当社に関与し、豊穣をもたらす稲霊を祀り、郷民の安泰を願ったのであろう。
社名は、恐らく氷川信仰の流布により「氷川社」に変更されたものと推測され、これが幕末まで続いたが、時流により明治初年、旧社名「稲乃比売」に復した。ちなみに、社蔵の宝暦七年(一七五七)の社号額には「氷川大明神」と刻まれている。
現在の本殿は、安政三年(一八五六)の再建で「鎮守再建一札」には、妻沼町聖天山の貴惣門を建築した林兵庫の名が見える。
祀職は、天長一元年(八二四)以来の名家と伝える、相馬家が奉仕している。(「埼玉の神社」より)


稲乃比売神社の周辺図