潮音寺。武州稲毛七福神の福禄寿
潮音寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の潮音寺は、萬松山と号します。潮音寺は、日峯法朝(永享10年1438年寂)が開山となり創建したといいます。その後、地頭加々美金右衛門正吉が三男十左衛門朝音(潮音寺大菴宗鏡、承応元年1652年歿)の病死を悲しみ、菅村壽福寺の住僧と相談して当寺を潮音寺と改号して中興したといいます。地頭加々美金右衛門正吉は、法雲寺を開基した加々美才兵衛正光の子息で、高石神明社の神体を奉納・創建したといいます。武州稲毛七福神の福禄寿です。
山号 | 萬松山 |
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院号 | - |
寺号 | 潮音寺 |
住所 | 川崎市麻生区高石2-21-1 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
潮音寺の縁起
潮音寺は、日峯法朝(永享10年1438年寂)が開山となり創建したといいます。その後、地頭加々美金右衛門正吉が三男十左衛門朝音(潮音寺大菴宗鏡、承応元年1652年歿)の病死を悲しみ、菅村壽福寺の住僧と相談して当寺を潮音寺と改号して中興したといいます。
新編武蔵風土記稿による潮音寺の縁起
(高石村)潮音寺
字本村谷にあり、臨済宗にてこれも壽福寺末なり、萬松山と號す、相傳ふこの寺昔は他所にあり、開山は日峯法朝といふ、此人永享十年四月三日寂せりと、然ればことに古き寺なれど、其後一旦衰へて廢寺の如くなり、菅村壽福寺の持となれり、御入國の後地頭は加々美金右衛門正吉なり、彼が三男十左衛門朝音はことに寵愛の子なり、承應元年十二月六日病て歿せしかば、正吉哀傷のあまり一寺剏立の志切なりよりて此事を本寺の壽福寺の住僧にはかり、爰にうつして再造の功を竣め、朝音が法諡も夫までは法因といひしを、改めて潮音寺大菴宗鏡と號して、中興開基とし、法諡を以寺號とせり、此に於て父の正吉より観音供免、及び潮音斎料として三段九畝の地を永く寄附して冥福の寳とすといへり、客殿七間半に五間半巽向なり、本尊は聖観音木像にして長一尺二寸許の坐像なり、腹内に長五寸ばかりの聖観音を容る、これは行基菩薩の作なりと云、この本尊及び過去帳は舊院の什物にして、本山よりここに移せしものなりとぞ。
鐘楼。境内に入て左にあり、鐘径一尺五寸ばかり、高三尺餘、銘文にあり、武之東郡江戸郷内有一蘭若、乃加々美金右金吾源朝臣正吉公者、菩薩戒弟子抽丹悃寄進之乎、〜(省略)(新編武蔵風土記稿より)
潮音寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿