茂岳山増福寺。準西国稲毛三十三観世音霊場
増福寺の概要
天台宗寺院の増福寺は、茂岳山観音院と号します。増福寺の創建年代等は不詳ながら、境内の八幡宮は源義家に所縁があるといい、また歴代住職に了典法師(元禄3年1690年寂)の名が残されていたといいます。準西国稲毛三十三観世音霊場23番です。
山号 | 茂岳山 |
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院号 | 観音院 |
寺号 | 増福寺 |
住所 | 川崎市高津区末長2-34-8 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
増福寺の縁起
増福寺の創建年代等は不詳ながら、境内の八幡宮は源義家に所縁があるといい、また歴代住職に了典法師(元禄3年1690年寂)の名が残されていたといいます。
新編武蔵風土記稿による増福寺の縁起
(末長村)増福寺
村の西によりてあり、天台宗にて多磨郡深大寺村深大寺末茂岳山観音院と號す、客殿六間に四間半艮向なり、本尊阿弥陀坐像一尺五寸なるを安ず、開山開基詳ならず、寺内に了典法師と云僧の墓碑あり、元禄三年二月十八日と刻す、是より古きは見えず、されば中興開基などにてもあるべきか、門艮向なり兩柱の間一間前に小き坂あり。
観音堂
門に向て右の方少く高き所にたてり、堂は二間半南向なり、観音は立像にて長二尺餘。
八幡宮
門外右の方に小鳥居を建、祠は客殿の後ろ丘上にあり僅なる造なり、神體は丸き石にて圓径二寸五分許石色酢答に類せり、今客殿に安ず、寛延元年に記せし縁起一軸あり、されど近き頃のものといひ、ことに覺束なき事多ければ悉信ずるに足ざれども、しばらく其大略を下に記せり、日寛治五年正月十五日源義家奥州後度の戦に利を得、當國へ歸り来りし頃たまたま長雨晴て海水潔し、軍卒等と共に向の岳を詠むるに玉垣清らかなるに感じて、各信心を動しける、やかで別當沙門に仰て見せしめられけるに、奇異の石あり、義家を始めかの石に武運を祈り、弓矢を納此里の民永く榮えんとて、末長邑と號せり、此岳を八幡山放生山とも云ひ慣はせり、後北條早雲再建し小田原の方への往還を開て崇めり、時過て荒蕪し享保七年小祠を建立し、上代の坂を廢き東都守護の爲に東向にせりと云、末に茂岳山観音院増福寺當住三部都太大阿闍梨権大僧都竪者法印頂典とあり、又降農八世梅原軍曹菅原時貞と記し、己が家系を末に録したりと、舊家の條に出ず。(新編武蔵風土記稿より)
増福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿