笠守稲荷神社。小田原市栄町の神社
笠守稲荷神社の概要
笠守稲荷神社は、小田原市栄町にある神社です。笠守稲荷神社は、天正8年(1580)に龍雲了詮が開山した龍雲寺の境内に祀られていたといいます。龍雲寺は明治維新後に誓願寺に合併されて廃寺となったものの、明治16年に華葉山龍雲院善光寺が創建された際、稲荷祠を寺鎮守として祀ったものを、町内の鎮守として現在地に遷して祀ってきたといいます。当町域は新道開通に伴い参詣者も多く、遊廓新開地もあったことから、いつしか笠守稲荷神社と称されるようになったそうです。
社号 | 権現神社 |
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祭神 | - |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 小田原市栄町2-15 |
備考 | - |
笠守稲荷神社の由緒
笠守稲荷神社は、天正8年(1580)に龍雲了詮が開山した龍雲寺の境内に祀られていたといいます。龍雲寺は明治維新後に誓願寺に合併されて廃寺となったものの、明治16年に華葉山龍雲院善光寺が創建された際、稲荷祠を寺鎮守として祀ったものを、町内の鎮守として現在地に遷して祀ってきたといいます。当町域は新道開通に伴い参詣者も多く、遊廓新開地もあったことから、いつしか笠守稲荷神社と称されるようになったそうです。
新編相模国風土記稿による笠守稲荷神社の由緒
当笠守稲荷神社は、元小田原寺町(現中町)に天正八年創立の花葉山一乗院龍雲寺と云う寺あり、その境内に安置されてあった。伝える処によると、木曽義仲の夫人巴御前(栢山善栄寺に墳墓あり)が偶々この街道を通りかかりし時、計らずも悪者に襲われ一命に関する折、一匹の白狐現われ身を菅笠に変じて危難を救い無事過ぎ行く事が出来たる由、その縁をもって人々同地に祠を造り笠守稲荷としって崇め多くの人々から敬信され年月を経て来ましたが、その後故あって龍雲寺が本寺である誓願寺に合併され、廃寺になっておりました処明治十六年足柄上郡沼田西念寺の松蔭宣龍上人の発願により現在の地に新寺建立を志し有縁の信徒により新寺建立寺名を改めて華葉山、龍雲院善光寺と稱してその折、祠を寺門に移し鎮守として護って来ました。その後新道も開けて商店街も発展し、偶々有志の人々と協議し町内の鎮守として永く祀らんと現在地に移し、篤信者の援護により堂宇完成人々の参詣後を絶たず当時近くに遊廓新開地有り婦人等の敬信殊に厚く何時しか笠守が変じて瘡守と呼ばれる様になりましたが幾星霜時代も変わりましたので其の後旧名に改め笠守稲荷として人々の篤き信仰の表徴として永く加護される様になりました。(境内掲示より)
当初稲荷神社を祀っていた龍雲寺について
(荻窪村)
龍雲寺
花業山一乘院と號す、同宗(浄土宗)(小田原一町田町誓願寺末、)天正八年龍雲了詮開山す、(登蓮社光譽と號す、文禄元年八月十五日卒、)本尊阿彌陀、又正觀音を安ず、(朝日觀音と號し、木曾義仲守護佛と傳ふ、正徳二年十世寮道の時より傳来すと云、)
△稲荷社(新編相模国風土記稿より)
笠守稲荷神社の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿