紹太寺。小田原市入生田にある黄檗宗寺院
紹太寺の概要
黄檗宗寺院の紹太寺は、長興山と号します。紹太寺は、小田原城主稲葉美濃守正則が妣長興夫人追福の為、臨済宗麟祥山紹太寺として小田原山角町に寛永12年(1635)創建、黄檗宗長興山紹太寺と改め、鉄牛和尚を開山として寛文9年(1669)当地へ移転、稲葉美濃守の父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔ったしたといいます。往時は七堂伽藍の整った大寺院であったといいますが、弘化4年(1846)安政年間(1854-59)、さらに明治の火災で焼失してしまい、子院であった清雲院が法灯を継いだといいます。
山号 | 長興山 |
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院号 | - |
寺号 | 紹太寺 |
本尊 | 釈迦如来像 |
住所 | 小田原市入生田303 |
宗派 | 黄檗宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
紹太寺の縁起
紹太寺は、小田原城主稲葉美濃守正則が妣長興夫人追福の為、臨済宗麟祥山紹太寺として小田原山角町に寛永12年(1635)創建、黄檗宗長興山紹太寺と改め、鉄牛和尚を開山として寛文9年(1669)当地へ移転、稲葉美濃守の父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔ったしたといいます。往時は七堂伽藍の整った大寺院であったといいますが、弘化4年(1846)安政年間(1854-59)、さらに明治の火災で焼失してしまい、子院であった清雲院が法灯を継いだといいます。
新編相模国風土記稿による紹太寺の縁起
(水野尾村)紹太寺
長興山と號す、始は麟祥山、引地の時今名に改む。黄檗宗、山城國宇治郡萬福寺末。寛永十二年、小田原城主稲葉美濃守正則、先考紹泰居士、妣長興夫人追福の為、一寺を城下に創建し、舊地小田原山角町の北に在、城東飯泉寺新開の地百石を斎糧とす、今飯泉新田と號し、當寺の除地たり。然に其地不便なりとて、寛文九年、正則今の地に移して、佛閣を再建し、鐵牛を請して開山第一祖となす。鐵牛語録曰、寛文七年四月、師在黄檗、七月大檀越閣老稲葉正則居士承旨新開相州城西長興山紹太禅寺、於己酉歳朧月十八日、請師進山、按ずるに己酉は寛文九年なり。寺域東西十四町七十間餘、東海道側に惣門あり、爰より道程六町餘、石磴三百六十級、磴側に石標あり、小關道永寄附のことを題す、を登て、堂宇の所在に至る、此邊のみ平地にして、三方共に高山なり、諸木蒼鬱として幽遠の地なり。此山もとは牛臥山と唱へしが、當寺域となりてより長興山と稱せり。
佛殿。本尊弥陀、大雄寳殿の四字を扁す、隠元書。
禅堂。観音を安ず。心空堂の額を掲ぐ、隠元書。
斎堂。緊那羅王を安ず、法喜堂の額あり、當寺二世超宗書。
経蔵。観音を安ず、蔵経閣の額を扁す、超宗書。
鐘楼。鐘は寛永十三年新鋳し、寛文元年本庵に銘を請、同三年再鋳せしこと、鐵牛の序文に見ゆ。
開山堂。鐵牛の木像を安ず、元禄十三年八月廿日卒、正徳二年十三回の回辰に、赦して大慈普應禅師の諡を賜ふ、又伽藍神達磨の像あり、慈昭堂の額を掲、鐵牛書。又書院の北山腹に開山の壽塔あり。
稲葉氏靈屋。中央に開基稲葉美濃守正則の像を安じ、其左右に同氏歴代の碑を置く。
祠堂。地蔵を安ず、圓明殿の額あり、超宗書。
鎮守社。太神宮八幡春日の三座を祀る。相傳ふ神體は弘法大師の作、初伊豆山般若院に在後年民家に傳へしを、當山開建の時、鎮守に祀れりと云。
辨天窟。小祠あり。
楼門。天王殿と號す、表面に弥勒、四隅に四天王、裏面に韋駄天を安ず、紹太禅寺の四字を扁す、鐵牛書。
総門。長興山の額を扁す、隠元筆。門外に制札あり、貞享四年領主より下す所なり、境内竹水隈に苅伐することを禁ずるなり。此餘方丈、参議佐理の筆跡、方丈の額あり。書院、清浄観の額を扁す、木庵筆、院中の眺望尤佳なり、木庵の題せる八景あり、曰、西嶺春花、江島螺髯、川崔雨聲、数筆遠山、前街夕照、三浦帰帆、東山秋月、湘江雪浪、其詩は藝文部に出す。
一吸亭。超宗の書せる三字を扁す。
少室。水月の額を掲ぐ、超宗筆、観音金像長一尺二寸なるを安ず、縁起に掾に、此像は漁父海中に網して得る所、閻浮檀金の像にして、淘海郡二宮明神の神主の家に安ぜしを、後鐵牛に贈りしと云。寮舎等あり。
稲葉氏墓。
一は開基美濃守正則。法名潮信院泰應元如。元禄九年九月六日卒。當山に葬す。家譜にも、九月七日牛頭山弘福寺に葬り、遺體を相州小田原長興山に送納すとあり。
一は丹後守正勝。正則父、法名養源寺古隠紹太、寛永十一年正月廿五日卒。
一は正勝室。正則母、長興院、心傳妙安、寛永三年十二月廿日卒、
一は春日局。
一は正則室。
一は稲葉丹後守正通、正則子。継室。
一は正則幼男の墓なり。都て七基、其内正則及正通の継室のみ當寺に葬りしなり。
其餘は菩提の為に正則造立す、又正勝の侍臣塚田木工助正家の墓あり。高節宗勇居士、寛永十二年正月廿五日卒、正家は正勝の周關の忌景に追腹を切しと云、其忠死を善し、爰に墓を築しなるべし。
川涯瀑布。書院の北にあり、長二尺許。木庵傍の巨石に川涯の二字を題す。下流を心潭水と號す、自然石に超宗心潭の二字を彫す。
牛臥石。方丈より凡七町を登り山中にあり、當山の古名を牛臥山と稱するは、此石に掾る、其状臥牛に似たり、長一丈二尺餘、側に牛洞を號せる石室ありしが今廃す。
此餘山中に山猪・寳亀・白象・青蛇・大蝦蟆・小蝦蟆の唱ある巨石あり、皆超宗其名を銘す。
又書院の庭に筆架石あり、各其形に依て名とする所なり。
子院清雲院。本尊釈迦、始祖雲谷寛文中起。
梧木犀院。寛文中、鐵牛父母追福の為に建、舊師前妙心提宗を請て開祖とす。院側に観音堂あり、堂後に窟あり、深一丈、方二間四尺餘
甘露院。本坊二世超宗の母久しく幽棲の地なり、寛文中一院となし、即開基となす。法名甘露院静安素貞尼姉。側に薬師堂あり。
幻寄庵。是も寛文中造り、超宗隠栖の所とす、本尊観音。
正定院。元梅原庵と云子院の廃せしを、享保十二年、海保半兵衛盛之なるもの、當山四世大痴に請て當院を建、僧高隠を第一世とし、祖父半兵衛正定の冥福を修す、故に正定を開基となせり、正定法名頓誉常圓、本尊正観音、運慶の作。(新編相模国風土記稿より)
境内掲示による紹太寺の縁起
紹太寺は、江戸時代の初期(寛永9年1632〜貞享2年1585)小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669年)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹太寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。往時は寺域方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。
元禄4年(1691年)この地を通過したオランダ商館医師ドイツ人ケンベルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。
現在の紹太寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。(境内掲示より)
小田原市教育委員会掲示による紹太寺の縁起
子院・清雲院(現・長興山紹太寺)
清雲院は、長興山紹太寺の参道沿いにある子院の一つです。
紹太寺の七堂伽藍は、弘化四年(一八四七)安政年間(一八五四〜五九)、さらに明治の火災で焼失しましたが、この清雲院は難を逃れ、本寺である紹太寺の法灯を守り現在に至っています。
山門前にある「松樹王」の刻銘石は、東海道の風祭と入生田の境にあった境界石です。この刻銘石の左側面を見ると「長興山境」と刻まれていることからも分かります。紹太寺の広大な寺領には、7箇所あったと伝えられ「長興山の七つ石」(五基確認)といわれています。
山門を入って本堂正面に掲げられている「長興山」の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師が書き下ろしたもので、紹太寺の総門(大門)にあったものです。(小田原市教育委員会掲示より)
紹太寺所蔵の文化財
- 長興山紹太寺総門(大門)跡
- 透天橋・放生池・石柱
- 一吸亭跡
- 稲葉一族の墓所と鉄牛和尚の寿塔(小田原市指定文化財)
- 長興山開発供養塔(小田原市指定文化財)
- 長興山紹太寺の境内絵図(小田原市指定文化財)
- 開山鉄牛和尚の画像(小田原市指定文化財)
- 鉄牛和尚の血書(小田原市指定文化財)
- 長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢(小田原市指定文化財)
- 長興山のしだれ桜(小田原市指定文化財)
長興山紹太寺総門(大門)跡
紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。
元禄四年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向う途中、この総門をみて彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記しています。
「入生田村は、小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が立っている。」
この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。
なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。(小田原市教育委員会掲示より)
透天橋・放生池・石柱
正面の石橋を「透天橋」といい、稲葉美濃守正則の重臣田辺権太夫夫妻が寄進したものといわれています。
また、橋の下の池を「放生池」と呼び、以前はもっと広く、近くを流れる石牛沢から引かれた水が入って、開山鉄牛禅師はこの池でも「放生会」を行ったものと思われます。放生とは、捕らえられた魚を慈悲の心で放してやることです。
透天橋を渡った参道の両側にある石柱は、長興山紹太寺の天王殿(楼門)の手前に位置し、いつ頃建立されたものか不明です。
向って右側の石柱に刻まれている銘文は、往時の紹太寺の伽藍の周囲に植えられていた樹木の様子がよくわかります。(小田原市教育委員会掲示より)
稲葉氏一族の墓
稲葉氏は、寛永九年(一六三二)から貞享二年(一六八五)まで正勝、正則、正通の三代五十三年間、小田原城主でありました。正則は寛永十二年(一六三五)父母の追福のため菩提寺を城下の山角町(南町)に建てましたが、寛文九年(一六六九)に現在の紹太寺に移しました。
春日局は正勝の実母で、正則は幼少時から祖母の局に養育され、成人したと伝えられています。ここの局の墓は、正則が祖母の追福のために造った供養塔で、本墓ではありません。また、正勝とその夫人の墓も正則が父母のめい福を祈るために造った供養塔で、本墓ではありません。しかし、正則とその夫人の墓は、ここが本墓であると伝えられています。これらの墓の型は、正則だけ位牌型で、その他は五輪塔となっています。
なお、塚田杢助正家は、正勝の重臣でしたが、正勝の一周忌に切腹して殉死したという忠節をたたえ
ここに葬られました。
墓の配列は正面向って右より
塚田杢助正家の墓(正勝の侍臣)(伝正則造立)
稲葉美濃守正則の長兄の墓(伝正則造立)
稲葉丹後守正通の後室の墓(伝正則造立)
稲葉美濃守正則の正室の墓(伝正則造立)
春日局の墓(正勝の母)(伝正則造立)
稲葉丹後守正勝の墓(伝正則造立)
稲葉丹後守正勝の正室の墓(伝正則造立)
稲葉美濃守正則の墓(伝正則造立)(小田原市教育委員会掲示より)
長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢
長興山紹太寺は幕末の火災で堂塔が焼失しましたが、この付近の樹林は火災からまぬがれたため、聖域としてそのまま残され小田原市内はもとより神奈川県下でも数少ない残存自然林として貴重なものです。
この樹木を構成している代表的な樹林は、かってこの地域一帯を覆っていたと思われるスダジイとイヌマキで、共に二〇本余りを数え、これらの樹木は、いずれも小田原市内で最大級のものです。
このほか、クスノキ、ヤブニッケイ、シラカシ、ウラジロガシ、ヤブツバキなどの照葉樹が混生しています。
なお、この樹叢の指定面積は、六、七〇六平方メートルです。(小田原市教育委員会掲示より)
一吸亭跡
一吸亭は、長興山紹太寺第二世超宗和尚が天和三年(一六八三)の初夏、宇治から帰った師の鉄牛禅師を慰めるために二丈四方の建物造ったのが最初で、はじめは竹を編んで壁とし、草を敷いて坐るという風雅なにわか造りのものでしたが、後に改修されました。
しだれ桜の近くに「琵琶池」の刻銘石がありますが、この池は一吸亭の庭前の池であり、書院であった「静浄観」に劣らない山中の景勝地でした。
なお一吸亭の石は、目前に展開するすべての風景を一毛孔に吸い尽くすという意味で名付けられたといわれています。(小田原市教育委員会掲示より)
長興山の枝垂桜
シダレザクラは、本州中部以西に生えるエドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、枝が垂れ下がる点が特徴です。また、サクラの種類のうちでも寿命が長く、大木になり、特異な樹形となることから、神社や寺院の境内によく植えられ、市内でも早川の真福寺、下大井の保安寺、城内の二宮神社などに見られます。
この木は、枝を八方へ平均に広げ、シダレザクラの基本的な形を整えています。3月下旬から4月上旬にかけて濃い緑の樹叢を背景に開花する姿はまことに美しく、県下にも比類のない名木です。このサクラは、稲葉氏が紹太寺を建立した頃、その境内に植えられたもので樹齢三三〇年以上と推察されます。(小田原市教育委員会掲示より)
紹太寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿