蓮台寺。小田原市国府津にある時宗寺院
蓮台寺の概要
時宗寺院の蓮台寺は、國府山金光院と号します。蓮台寺は、遊行二祖他阿真教上人が永仁5年(1297)に開山、国府津道場と称され、後醍醐天皇の宸筆による額が本堂に掲げられ、永享12年(1440)の結城の乱に際しては、蒲原播磨守が当寺境内に陣を敷くなど、広大な寺域を有していたといいます。
山号 | 國府山 |
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院号 | 金光院 |
寺号 | 蓮台寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 小田原市国府津1789 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
蓮台寺の縁起
蓮台寺は、遊行二祖他阿真教上人が永仁5年(1297)に開山、国府津道場と称され、後醍醐天皇の宸筆による額が本堂に掲げられ、永享12年(1440)の結城の乱に際しては、蒲原播磨守が当寺境内に陣を敷くなど、広大な寺域を有していたといいます。
「川東仏教会寺院名鑑」による蓮台寺の縁起
本永仁5年(1297年)3月中旬、遊行二祖他阿真教上人によって開かれた。鎌倉大草紙に永享12年(1440年)8月結城の乱の時蒲原播磨守、国府津の道場に陣をとるとあるのは、この寺である。当時は、寺域も広く名刹とうたわれていたが、文化8年(1811年)の火災より、宝物、経蔵、鐘楼堂、書院、古器、古文書など、皆焼けてしまった。わずかに勅額(後醍醐天皇と東山院のお書きになったもの)だけが残ったが、これも大正3年(1914年)の火災で焼失してしまった。当寺には遊行五十八世尊澄上人の墓碑のほかに、日本の動画界の先達であった大藤信郎の墓がある。(「川東仏教会寺院名鑑」より)
新編相模国風土記稿による蓮台寺の縁起
(國府津村)
蓮臺寺
國府山金光院と號す、時宗、(藤澤清浄光寺末、)永仁五年、遊行二世眞教の開闢なり(元應元年正月廿七日卒、)本尊三尊彌陀を安ず、本堂に蓮臺寺の三字を扁す、後醍醐帝の宸筆と云、古は城内も廣く、寺産も二百貫許ありて、(今寺傍の字に、念佛免など唱ふる水田あり、)國府津道場と呼しとなり、(今に寺後の山を道場山と云、高四五町、)按ずるに、永享十二年八月、結城亂の時に、蒲原播磨守某、國府津の道場に陣を取と、【鎌倉大草紙】に見えしは、則當寺の事なり、(注釈を読む)
天文廿四年五月の文書(寶金剛寺蔵、)に、當寺時建立の時、番匠大工等の定ある事見えたり、
△熊野社 文禄三年三月再建す、
△松樹 門外にあり(圍丈三尺、)龍燈出現の松と云、(新編相模国風土記稿より)
蓮台寺の周辺図
参考資料
- 「川東仏教会寺院名鑑」
- 新編相模国風土記稿