宝光寺。相模原市中央区上溝にある曹洞宗寺院、名主佐藤対馬開基

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

秀珍山宝光寺。名主佐藤対馬開基

宝光寺の概要

曹洞宗寺院の宝光寺は、秀珍山と号します。宝光寺は、地頭大石源左衛門定久(真月斎道俊)が出家、娘の向西尼とともに上溝本郷に「向西庵」と称して天文6年(1537)に創始、その後名主佐藤対馬が開基となり宝光寺と称して慶長年間(1596-1615)当地へ移転、脱岑(慶長7年1602年没)が開山、慶安2年(1649)には寺領8石7斗の御朱印状を受領していいます。

宝光寺
宝光寺の概要
山号 秀珍山
院号 -
寺号 宝光寺
本尊 釈迦如来
住所 相模原市中央区上溝7-29-21
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宝光寺の縁起

宝光寺は、地頭大石源左衛門定久(真月斎道俊)が出家、娘の向西尼とともに上溝本郷に「向西庵」と称して天文6年(1537)に創始、その後名主佐藤対馬が開基となり宝光寺と称して慶長年間(1596-1615)当地へ移転、脱岑(慶長7年1602年没)が開山、慶安2年(1649)には寺領8石7斗の御朱印状を受領していいます。

新編相模国風土記稿による宝光寺の縁起

(上溝村)寶光寺
秀珍山と號す、曹洞宗(下溝村天應院末)本尊釋迦、開山脱岑(慶長七年三月廿一日卒)開基は佐藤對馬なり(村民長左衛門が祖、八幡社棟札にも對馬の名見ゆ、)慶安二年寺領八石七斗の御朱印を賜ふ、
鐘樓。鐘は享保十四年鑄造す、
金毘羅白山合社(新編相模国風土記稿)

平成さがみはら風土記稿による宝光寺の縁起

宝光寺は、上溝のパス停「元町」より東南100mにある曹洞宗の寺院です。
『風土記稿』によると、天応院(本市下溝)の末寺で、山号を秀珍山といい、釈迦如来を本尊としています。
また、開山は脱岑(慶長7年(1602)没)、開基を佐藤対馬(歿年不詳)とし、慶安2年(1649) に8石7斗の朱印地が与えられています。
その創建について伝承では、当寺はもともとは上溝本郷地区の崖下にあった向西庵という小堂であったとしています。向西庵は、天文6年(1537) に地頭であった大石源左衛門定久が出家して真月斎道俊と称し、娘の向西尼と一緒に結んだという庵で、その後、慶長年間(1596~1615) に名主の佐藤対馬が宝光寺として現在地に移したものだと伝えています。
この佐藤対馬については亀ヶ池八幡宮の文禄2年(1593) の棟札にもその名を見出すことができます。
当寺でも江戸時代末期には寺小屋が聞かれ、近隣の児童の教育の場となっていました。
境内には記念碑が多く、華道で名を馳せた18世恭山愚謙の碑や、江戸時代の医者でこの地ではじめて種痘を行った井上篤斎の碑、昭和初期の日本画家、片野湘雲の碑などがあります。(平成さがみはら風土記稿より)

相模原市観光協会掲示による宝光寺の縁起

この寺は曹洞宗下溝天応院の末寺で、山号を「秀珍山(しゅうちんざん)」といいます。縁起によると、天文年間(1532~1554年)当時、地頭であった大石源左衛門定久が出家して真月斎道俊と称し、娘の向西尼とともに上溝本郷の地に「向西庵」という庵を結んで修行していたといわれています。その後、慶長年間(1596~1615年)に名主の佐藤対馬が現在の場所に移し「宝光寺」として開基したと伝えられています。(相模原市・相模原市観光協会掲示より)


宝光寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • さがみはら風土記稿