寶積山行安寺。天正9年に阿弥陀堂として創建、前倉見領主山中三河守の子・形部少輔菩提を弔う為に創建
行安寺の概要
浄土宗寺院の行安寺は、寶積山了覺院と号します。行安寺は、天正9年(1581年)に阿弥陀堂として創建、徳川家康の旗本高木甚太郎清方(法名寶積院願譽浄林居士)が当地の領主なった際、北条家の家臣で倉見の領主だった山中三河守の子形部少輔(行安院殿宗誉浄定大禅門、天正11年1583年没)の菩提を弔うため一寺となしたといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石7斗の御朱印状を受領しています。
山号 | 寶積山 |
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院号 | 了覺院 |
寺号 | 行安寺 |
住所 | 高座郡寒川町倉見1873 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
行安寺の縁起
行安寺は、天正9年(1581年)に阿弥陀堂として創建、徳川家康の旗本高木甚太郎清方(法名寶積院願譽浄林居士)が当地の領主なった際、北条家の家臣で倉見の領主だった山中三河守の子形部少輔(行安院殿宗誉浄定大禅門、天正11年1583年没)の菩提を弔うため一寺となしたといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領9石7斗の御朱印状を受領しています。
新編相模国風土記稿による行安寺の縁起
(倉見村)
行安寺
寶積山了覺院と號す、浄土宗武州瀧山大善寺末、開山成阿天正七年九月十三日卒、開基は故地頭高木甚太郎清方なり、御朱印九石七斗慶安二年十月十七日賜る、本尊阿彌陀湛慶作を安ず、
開基高木甚太郎清方墓。碑面に寶積院願譽浄林居士と題し、側に慶長四年十二月十四日と勒す
重修譜に清方は六郎左衛門宜光が次男なり、尾州小川城主水野下野守信元に屬す、永禄四年石瀬の戦ひに伴藤助を討取、又戦ひて成瀬新太郎を討取、天正三年信元卒して、織田信長の命をうけて、佐久間右衛門尉信盛に屬し、其後水野和泉守忠重に屬す、同十九年東照宮御旗本に参るべきの旨同氏九助廣正、鈞命を傳ふ、是より事へ奉る、此時相模國高座郡の内にて六百八十石餘の采地を賜ふ、卒年法名は本文と同じ(新編相模国風土記稿より)
「寒川町史10別編寺院」による行安寺の縁起
行安寺
浄土宗。山号は宝積山、院号は了覚院。開山は成阿、開基は旗本高木甚太郎清方。清方は天正十九年(一五九一)に徳川家康の旗本となり、領地六八〇石余を得た際に倉見村の領主となった。墓は当寺境内から少し離れた場所にあり、碑面には「宝積院殿願誉浄林大居士 慶長四年亥極月十四日」と刻まれている。
本寺は八王子にある関東十八檀林の一つであった大善寺。朱印高は九石七斗。写しであるが、徳川家康・家重・家治三代の朱印状が現存している。明治十二年(一八七九)の「寺院明細書上」によれば、境内七〇四坪・境外所有地三町三反余を有していた。また下って大正十三年(一九二四)二月の「寺院明細帳」(寒川町蔵)には、明治二十一年(一八八八)十二月十九日に建坪一一七坪あった本堂・庫裡が焼失したので、翌二十二年二月に間口九間五尺・奥行四間五尺の仮本堂を新設したことが記されている。
寺号の由来については、元禄年間(一六八八~一七〇四)の火災によって史料が焼失したため、その創立年次は不詳であるとしている(前掲大正十三年「寺院明細帳」)。しかし、『浄土宗寺院由緒書写』に「天正九年辛巳起立、往昔は弥陀堂なり、山中三河守の子形部輔死す、菩提として立ておわんぬ、戒名号行安院殿宗誉浄定大禅門、天正十一癸酉年十二月十三日寂」とあり、創建が天正九年(一五八一)であること、山中刑部少輔の法名にちなんで命名されたことなどが記されている。
「北条氏所領役帳」には倉見を知行した山中彦八郎がみえることから、山中氏と倉見のつながりの深さを窺わせる。
本尊は阿弥陀三尊像(同寺蔵、町指定重要文化財)。像底銘より天正十年(一五八二)の造立であることが知られ、『新編相模国風土記稿』によれば、同像は湛慶作と伝えられており、その後明暦三年(一六五七)・天保十四年(一八四三)の二度にわたって修理された。また「当麻曼荼羅図」(同寺蔵)は木版刷りに彩色を加えたもので、裏書によれば元禄十六年(一七〇三)に和泉国堺(大阪府堺市)盛宗寺の僧得誉によって作られたものとされる。
ほかに天保十四年作の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」一幅がある。(「寒川町史10別編寺院」より)
行安寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀三尊像(寒川町指定重要文化財)
木造阿弥陀三尊像
中尊は、底部の銘により天正十年(一五八二)の造立であることが明らかであり、古式の偏袒右肩、典雅な尊顔と尊体、正統的で穏やかな彫技など、中央の桃山風の基準作として重要である。両脇侍は江戸時代の丁寧な後補作とみられる。(寒川町教育委員会掲示より)
行安寺の周辺図