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霊信山西善院。高座郡寒川町にある高野山真言宗寺院

西善院の概要

高野山真言宗寺院の西善院は、霊信山と号します。西善院の創建年代等は不詳ながら、弘誉法師が寛文11年(1671)に創建したとも、貞誉法印が開山したとも云われ、寒川神社の供僧寺として創建、明治維新の神仏分離に際して、寒川神社の別当寺薬王寺・供僧寺神照寺は復飾したものの、西善院には、安楽寺弟子の祐全が入寺して薬王寺・神照寺の檀家を引き継ぐこととなったといいます。

西善院
西善院の概要
山号 霊信山
院号 西善院
寺号 -
住所 高座郡寒川町宮山3925
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



西善院の縁起

西善院の創建年代等は不詳ながら、弘誉法師が寛文11年(1671)に創建したとも、貞誉法印が開山したとも云われ、寒川神社の供僧寺として創建、明治維新の神仏分離に際して、寒川神社の別当寺薬王寺・供僧寺神照寺は復飾したものの、西善院には、安楽寺弟子の祐全が入寺して薬王寺・神照寺の檀家を引き継ぐこととなったといいます。

新編相模国風土記稿による西善院の縁起

(宮山村:寒川神社項)
供僧西善院 本尊彌陀を置く。(新編相模国風土記稿より)

「寒川町史10別編寺院」による西善院の縁起

西善院
古義真言宗で、山号は霊信山という。本尊の阿弥陀如来坐像は、像高四六・五センチメートル、江戸時代の作と推定されるが、宮山村「皇国地誌」(皆川邦直氏蔵)によれば、この阿弥陀像を「僧空海ノ作ナリ」としている。なお、史料では本尊を地蔵菩薩としているが、これは誤りである。また、同史料および前掲「皇国地誌」には、当院の由緒について、開基を弘誉法師、寛文十一年(一六七一)五月の創建であるとしている。ただし、寛政十年(一七九〇)「万控帳」(皆川邦直氏蔵)によれば、開山を「貞誉法印」としている。
寛永十年(一六三三)の「関東真言宗古義本末帳」(『寺院本末帳集成』)には、岡田村安楽寺の末で「一宮供僧」とある。
境内地は、寛政二年(一七九〇)九月の覚書によれば、屋敷地一一二七坪の内に、六間×七間半の本堂と三間×六間の庫裡が建ち、九尺×一間の門も付いていた。
それに対し明治期には境内坪数は四〇五坪、本堂が間口五間×奥行四間と、規模が縮小されている。なお明治期の境外所有地として四反二畝三歩の耕地があった(同前)。また享保五年(一七ニ〇)の宮山村明細帳には「聖り之宮根岸地内」に五畝一五歩、文化五年(一八〇〇)の差出帳には同じ根岸にあった子神大権現の社木をそれぞれ支配していたことが記されている。
西善院は寒川神社の供僧として、社領一〇〇石のうちの四石八升四合を与えられていた。寒川神社では節分の際には神酒を供え、一・六・十一月の八日祭や十二月の不動仏供を執行する役目が与えられていた。宝永四年(一七〇七)三月、寒川神社における座順をめぐる別当薬王寺と供僧四か寺との争論裁許では、薬王寺を主座とする裁決がなされた一方で、西善院を含む供僧四か寺は在所閉門を命じられている。
(中略)
明治初年の神仏分離の過程で、同じ寒川神社供僧であった薬王寺・神照寺は復飾して同社の神官となったが、西善院は神主とはならず、岡田村安楽寺弟子の祐全が入寺して前二か寺住檀家を引き継ぐこととなった。西善院はこの当時「是迄無住ニて右両寺と兼帯まかりあり候」という状況であった。
当院には本尊である前掲阿弥陀如来坐像のほかに、銅造不動明王坐像(像高一三・五センチメートル)が現存する。この像は室町時代の作風と推定され、大山講中回りの本尊であることから、大山信仰が盛んであったことがうかがえる。その他鎌倉扇ノ谷村の仏師加賀の手になる木造弘法大師坐像(寛文十二年)一躯軀・木造弁才天坐像一軀がある。(「寒川町史10別編寺院」より)


いいお墓

西善院の周辺図