大塚山安楽寺。中本寺格の寺院、大神塚、大日如来坐像
安楽寺の概要
高野山真言宗寺院の安楽寺は、大塚山成就院と号します。安楽寺の創建年代等は不詳ながら、往古は寒川神社の別当を勤め、江戸期には門末18ヶ寺を擁した中本寺格の寺院だったといいます。明治維新後に廃寺となった観護寺、等覚寺、宝塔院を合寺しています。当寺の本尊大日如来坐像は平安時代後期の作とされ寒川町文化財に指定されている他、境内の大神塚(応神塚)は帆立貝形の前方後円墳で、五世紀の築造と推定されています。
山号 | 大塚山 |
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院号 | 成就院 |
寺号 | 安楽寺 |
住所 | 高座郡寒川町岡田2387 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
安楽寺の縁起
安楽寺の創建年代等は不詳ながら、往古は寒川神社の別当を勤め、江戸期には門末18ヶ寺を擁した中本寺格の寺院だったといいます。明治維新後に廃寺となった観護寺、等覚寺、宝塔院を合寺しています。準四国八十八か所6番、71番(観護寺)、75番(宝塔院)です。
新編相模国風土記稿による安楽寺の縁起
(岡田村)
安楽寺
大塚山と號す、古義眞言宗高野山高寶院末、本尊大日を安ず、古は寒川神社の別當職なりしと云ふ、
洪鐘。貞享三年の鑄造なり
大塚。當寺の山後に在り、凡二十間四方、當寺の山號は是より起ると云ふ、應神塚と唱ふ、塚上に大日の石像あり
蓮華座に、大塚山安楽寺成就院、傳聞相州一宮寒川大明神碑、先生之御廟窟也、天和二年壬戌十月廿一日、法印善榮造立と彫る、按ずるに當寺古寒川神社の別當寺たりしと云ひ、彼社傳に祭神は應神天皇なりと傳ふるが故に、後世附會して廟窟と稱し、應神塚など唱ふるならん。
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觀護寺
鶴足山慈眼院と號す前寺末(安楽寺末)本尊不動を安ず。
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等覺寺
延命山と號す本寺前に同じ(安楽寺末)本尊地蔵を置く
薬師堂
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寶塔院
南岳山と號す本寺前に同じ(安楽寺末)地蔵を本尊とす、(新編相模国風土記稿より)
「寒川町史10別編寺院」による安楽寺の縁起
安楽寺
安楽寺は山号を大塚山、院号を成就院という。高野山高宝院の末で、古義真言宗の中本寺であった。『新編相模国風土記稿』には「古は寒川神社の別当職なりしと云ふ」とあるが、由緒に関する記述は他になく、開山、開基はわかっていない。明治三十七年(一召回)には末寺であった観護寺と等覚寺を、四十年には同じく宝塔院をそれぞれ合併して今日に至る。本尊は大日如来坐像。平安時代後期の作で、像高は約一〇〇センチメートル。寒川では最も古い仏像で、町指定重要文化財になっている。
明治末期の境内地は五五一坪、境外所有地は従来より安楽寺持だった分が一町四反三畝一歩であったほか、旧観護寺分として三反七畝一歩、旧等覚寺分一反六畝一六歩、旧宝塔院分五反四畝一〇歩があった。堂宇の規模は間口七間半、奥行六間であった。寺所蔵史料によれば、朱印地は高五石一斗だが、元文四年(一七三九)火災で朱印状を焼失したという。明治二年頃の「朱印地・除地等書上」(三枝茂代氏蔵)には、その朱印地は下畑九反三畝ニ〇歩とあり、『旧高旧領取調帳』では寺領二石三斗とある。
(中略)
寺内にある石造物としては、南北朝時代の文和二年(一三七九~八一)と康暦年間(一三七九~八一)の板碑が各一枚ある。また参道左側の小祠内には三体の弘法大師坐像がある。準四国八十八か所の札所を示すもので、ひとつはもともと安楽寺にあった六番札所のものだが、残りの二つは末寺観護寺と宝塔院が廃寺になったときに移されたものである。
さて、寛永十年(一六三三)の「関東真言宗古義末寺帳」(『寺院本末帳集成』)には安楽寺の末寺として一八か寺が書き上げられている。寒川町域はもとより、現在の海老名・藤沢両市にもまたがっており、「一之宮門中」・「大塚門中」と称された。ちなみに周辺の同様の組織に、茅ヶ崎村の円蔵寺を中本寺とする「茅ヶ崎門中」、河原口村(海老名市)の総持院を中本寺とする「海老名門中」、藤沢宿の感応院を中本寺とする「藤沢門中」などがあり、祈祷などの宗教的活動をはじめ、本山からの指令やさまざまな役負担などもこの門中組織を通じて行われていた。
これらの安楽寺の末寺は、さらに四種類の格付けがなされていた。史料は、江戸出府などにかかった費用を門中所属の末寺で分担することを定めたもので、「上通り」、「中通り」、「下通り」、「下々通り」の四種の格付けに応じて分担金を決めていた。どの末寺がどのランクに属したかはわからないが、高野山内の諸院家の格付けに倣ったものと思われる。(「寒川町史10別編寺院」より)
安楽寺所蔵の文化財
- 安楽寺本尊大日如来像(寒川町指定重要文化財)
- 大神塚(寒川町指定重要文化財)
- 大(応)神塚周辺小型古墳発掘記念碑(寒川町指定重要文化財)
安楽寺本尊大日如来像
大日如来は、古くは寒川神社の別当であったと伝えられる安楽寺の本尊です。穏和な全体感、浅めでおとなしい彫技などの特徴から、平安時代の作と考えられています。寒川町内最古の仏像です。(寒川町教育委員会掲示より)
大神塚
全長約五十メートル、後円部徑約三十メートル、同高さ約五メートルの帆立貝形を呈する大きな前方後円墳である。
明治四十一年四月、寒川神社宮司菟田茂丸氏の提唱で坪井正五郎博士により発掘調査が行われた。出土した和鏡二面、漢鏡一面、直刀三振や、陪塚から出土した金銀環、勾玉、管玉等は寒川神社に展示されている。
古墳の築造は五世紀と推定される。(寒川町教育委員会掲示より)
大(応)神塚周辺小型古墳発掘記念碑
この記念碑は1908年(明治41年)に大(応)神塚周辺の小型古墳の発掘調査を記念して建てられたものです。
この調査は、大(応)神塚の発掘調査と同時に行われたもので、東京帝国大学教授坪井正五郎氏が調査を担当しました。小型古墳は5基の円墳があったと考えられており、そのうち3基が調査されました。1基からは埋葬施設である石室が検出され、内部より数体分の人骨と副葬品として耳環、勾玉、管玉、切子玉等の装身具と直刀、鏃等の鉄製品が出土しました。
この記念碑はその古墳の付近にありましたが、区画整理にともない、平成19年2月にこの場所に移設されました。(寒川町掲示より)
安楽寺の周辺図