玉傅寺。市指定文化財の木造不動明王座像・矜羯羅童子像
玉傅寺の概要
東寺真言宗寺院の玉傅寺は、生駒山金蔵院と号します。玉傅寺は、保延2年(1136)飯田岡に創建、永正年間(1504-1521)に洪水で堂宇荒廃したため、僧賢乗が永正15年(1518)当地へ移転させて再興したといいます。当寺本尊の木造不動明王座像、脇侍の矜羯羅童子像は、南足柄市文化財に指定されています。
山号 | 生駒山 |
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院号 | 金蔵院 |
寺号 | 玉傅寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 南足柄市生駒234 |
宗派 | 東寺真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
玉傅寺の縁起
玉傅寺は、保延2年(1136)飯田岡に創建、永正年間(1504-1521)に洪水で堂宇荒廃したため、僧賢乗が永正15年(1518)当地へ移転させて再興したといいます。
「南足柄市史」による玉傅寺の縁起
炭焼所村玉伝寺
玉伝寺は市域内の寺院の中で最も古い。と言っても、保延二年(一一三六)の創建地は飯田岡村(小田原市)であり、永正年中の洪水で堂宇が荒れたため、同一五年に炭焼所村(生駒)に移った(『風土記稿』)。同寺には中沼村に小泉寺という末寺があった。薬師堂とも称する小寺で、その本尊は和泉式部の守護仏(行基作)と伝えられている。(「南足柄市史」より)
新編相模國風土記稿による玉傅寺の縁起
(炭燒所村)
玉傳寺
飯田山金蔵院と號す、古義眞言宗、(足柄下郡國府津村寶金剛寺末)保延二年足柄下郡飯田岡村内に起立す、永正中洪水の爲に堂宇荒廢せしを、十五年僧賢乗こゝに移して再興せり、故に賢乗(永正十五年三月十五日寂す)を立て更に開山とす、本尊不動(臺座共座像五尺九寸智證作)を置、
△觀音堂。馬頭、如意輪の二像を安ず、
△天神社。稲荷社
△鐘樓。元禄七年鑄鐘を掛、(新編相模國風土記稿より)
玉傅寺所蔵の文化財
- 木造不動明王座像
- 矜羯羅童子像
木造不動明王座像
当寺の本尊不動明王である。像高は五九・五センチ、脇侍は矜羯羅童子だけで、制吒迦童子は失われている。寄木造・玉眼・彩色の量感豊かで面部及び衣文等にも中世の作風がよくあらわれている。右手に宝剣、左手に羂索をもっている不動明王の標準的な形で、室町時代の作である。『新編相模國風土記稿』には「智證作」とある。
不動明王は、五大明王または八大明王の一つで、大日如来が衆生を折伏強化するため、恐ろしい姿をかりに現した忿怒像で、火焔を持って汚れを焼き清め、密教の修業者を守る明王として信仰された。日本では平安初期以来密教が広まると共に尊崇され今日に至っている。(南足柄市教育委員会掲示より)
矜羯羅童子像
本尊不動明王の脇侍である。像高は五四・二センチ、木寄せは不明で寄木造の可能性もある。
玉眼・彩色で室町時代の作と考えられる。失われている制吒迦童子と共に不動明王の脇立りの童子で、本尊の左側に立つ。合掌して金剛杵を親指と人差指の間に横に挟み、身白肉色で童子の姿をとり裳天衣等をつける。
玉傳寺は昔、飯田山金蔵院と称し、保延二年(一一三六)飯田郷内に建立の古義真言宗の寺だが、洪水のため永正一五年(一五一八)に僧賢乗がここに移して再興し、中興開山となられた真言宗の寺である。(南足柄市教育委員会掲示より)
玉傅寺の周辺図
参考資料
- 新編相模國風土記稿
- 「南足柄市史」