深見神社。大和市深見の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

深見神社。旧鹿島社、旧郷社、延喜式内社

深見神社の概要

深見神社は、大和市深見にある神社です。深見神社の創建年代は不詳ですが、雄略天皇22年(485)に鹿島神宮(武甕槌命)を勧請して創建したと伝えられ、延長五年(927)に完成した延喜式の神名帳に明記された延喜式内社の一社です。江戸時代に編纂された新編相模国風土記稿には「鹿島社」として見え、明治維新後の社格制定に際して、明治6年郷社に列格していました。

深見神社
深見神社の概要
社号 深見神社
祭神 武甕槌尊、建御名方神
相殿 -
境内社 稲荷社、靖国社
祭日 例祭日9月15日
住所 大和市深見3367
備考 旧郷社、延喜式内社



深見神社の由緒

深見神社の創建年代は不詳ですが、雄略天皇22年(485)に鹿島神宮(武甕槌命)を勧請して創建したと伝えられ、延長五年(927)に完成した延喜式の神名帳に明記された延喜式内社の一社です。江戸時代に編纂された新編相模国風土記稿には「鹿島社」として見え、明治維新後の社格制定に際して、明治6年郷社に列格していました。

大和市教育委員会掲示による深見神社の由緒

深見神社
「深見」という地名は「倭名類聚鈔」に相模国高座郡深見郷と記されており、市内の地名が初めて文献に登場したものです。しかし、この時の深見の範囲は現在地を含めてかなり広い範囲を総称していたもののようです。
深見神社は鹿島社の別称がありますが、言い伝えによれば、領主であった坂本氏が茨城県鹿島神宮の祭神を勧請したためといいます。市内に所在している神社の中では唯一の「延喜式」神名帳(927)に掲載された延喜式内社となっています。延喜式内社は全国で3132社あるが、この制度の目的は天皇家の安泰と国の隆盛・五穀豊穣を祈願するというものであり、当時の国の中枢である天皇家と直接結びつくものでありました。村の鎮守という一面と地方を代表するものという一面の両者を持っていたといえます。なお、境内には大和市指定重要文化財である寛政三年に建立された「深見神社社号標」と天然記念物であるハルニレがあります。(大和市教育委員会掲示より)

境内掲示による深見神社の由緒

当神社の創始は古く総国風士記によれば今より約1500年前雄略天皇22年3月創祭とあり朝廷より奉幣の事が記されてある。当時朝野遠近の崇敬篤く著名の社であった事が知られる。其の後桓武天皇の5月を始め歴代国司より奉幣の事があり更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国十三座の一社と定められ官社として扱われ国幣を奉られた。
毎年2月の祈年祭には神祇官の奉幣が奉られこの地方士民信仰の中心をなしていた。
後世源頼朝小田原北条、武田信玄を始め渋谷庄司重国太田道灌等の信仰も特に篤く徳川時代に至っては旗本坂本小左衛門重安寺社奉行坂本内記重治は屡々参詣し社殿造営のこと亦社領寄進等古来武門武将の崇敬は鄭重をきわむるものがあった。
明治6年12月太政官布告により郷社に列せられたるも同9年隣地仏導寺の火災に類焼し荘厳なる社殿工作物等悉く焼失した。
明治42年村内諏訪社を合祀し諏訪社の祭神は当社の相殿となった。
昭和16年1月当社が再建されたるも昭和20年12月神道指令により神社の国家管理が廃止され現在は神社本庁に属しこの地方遠近の崇敬者より御神徳を敬仰されている。(境内掲示より)

神奈川県神社名鑑による深見神社の由緒

人皇第二十一代・雄略天皇二十二年三月の創祀と伝えられる。延喜式内社に列し相模国十三座の一に数えられる。
深見は『和名抄』所載の布加美であって、古は深水と書き相模原の東辺、境川流域一帯に亘る地を総称した。太古、この付近一帯は相模湾が深く湾入し、舟筏を以て交通し、今ここを古深見入江と仮称している。
当社の縁起によると武甕槌神は東国鎮撫のために常陸国・鹿島にあらせられた時、舟師を率いてここに進軍され、伊弉諾神の御子・倉稲魂命、暗龗神二神をして深海を治めさせられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の名の起こった所以である。今境内にある御倉稲荷社は両神を祀る所であり、里人は農業の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子・日本武尊が御東征の時に、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと言う。今郷内にある薙原、石楯尾、御難塚の地名は尊の御遭難の地と伝承されている。
当社に対する尊崇は篤く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義の昔から、更に降つては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した太田道灌は、その出陣に際して社前に戦勝を祈願し、坂本小左衛門重安は、徳川家康の大阪の陣に従軍するに当って武運長久を祈願して田を寄進、(鹿島田と言って今に残る)徳川幕府の寺社奉行・坂本内記重治はしばしば参詣して社殿を造営し、「相模国十三座の一深見神社」なる社号標を建立した。
明治六年十二月に太政官布告によって郷社に列せられ、明治四十三年には、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し、我国建国史上御縁り深き二神は御同列に奉斎され、深見神社として御神徳益々赫かしく参詣者の数も多い。(神奈川県神社名鑑より)

新編相模国風土記稿による深見神社の由緒

(深見村)鹿島社
村の鎮守なり、鳥居の傍に石標あり、相模国十三座之内、深見神社と彫る、式内郡中小社五座の一なり。神名帳曰、高座郡小五座、深見神社云々。祭神は武甕槌尊なり。鹿島と号するは常州鹿島神社と祭神同じきのみにあらず、彼社世に著名なればかく呼習せり。祭礼村内諏訪神社と隔年十一月月日を卜して執行す。当日瀬谷村(鎌倉郡属)寶蔵寺の僧来りて法楽をなす。村持。
末社、稲荷。
神木、松一株囲三丈程、此余社地に老松樹数株あり。(新編相模国風土記稿より)


深見神社所蔵の文化財

  • 深見神社社号標(大和市指定重要文化財)
  • ハルニレ(大和市天然記念物)

深見神社社号標

この社号標は、深見村の領主であった旗本坂本重冶が造立したと伝えられています。正面には「相模国十三座之内深見神社」と書かれ、深見神社が延喜式内社であることが明記されています。
延喜式内社とは、延長五年(927)に完成した延喜式の神名帳に明記された神社のことで、相模国には寒川神社など全部で十三座ありました。このことから深見神社は平安時代委にはすでに存在していたことがわかります。(大和市教育委員会掲示より)

ハルニレ

ハルニレは夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の1000m以上の地にみられますが、深見のような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何という名の木かわからなかったので、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったと伝えられています。
四~五月、葉に先だって褐紫色の小さな花を葉の脇に束状に七~十五個程つけます。六月には扁平な翼を持った果実が熟して落ちます。葉の緑は鋸歯状で表面は脈がへこみザラついています。(大和市教育委員会掲示より)


深見神社の周辺図