住吉城址|逗子市の名所旧跡

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住吉城址|三浦道寸の弟三浦道香が拠った城址

住吉城址の概要

住吉城址は、逗子市にある名所旧跡です。住吉城址の築城年代等は不詳ながら、小田原北條氏の北條早雲が相州攻略にあたり、永正7年(1510)当住吉城に拠点を置いたと伝えられます。その後北條早雲は住吉城を放棄、住吉城は、平塚岡崎城に拠っていた三浦道寸の支城となり、弟の三浦道香が拠っていました。岡崎城を攻略された三浦道寸は住吉城に逃れきたものの、永正10年(1513)住吉城も攻略され、三浦道寸は三浦新井城へ逃れ、三浦道寸・その子義意は三浦新井城で自害し三浦氏は滅亡、住吉城は廃城となりました。

住吉城址
住吉城址の概要
名称 住吉城址
区分 史跡
入場時間 -
入場料 -
住所 逗子市小坪5-12-9
備考 -




住吉城址の由緒

住吉城址の築城年代等は不詳ながら、小田原北條氏の北條早雲が相州攻略にあたり、永正7年(1510)当住吉城に拠点を置いたと伝えられます。その後北條早雲は住吉城を放棄、住吉城は、平塚岡崎城に拠っていた三浦道寸の支城となり、弟の三浦道香が拠っていました。岡崎城を攻略された三浦道寸は住吉城に逃れきたものの、永正10年(1513)住吉城も攻略され、三浦道寸は三浦新井城へ逃れ、住吉城を守っていた三浦道香主従七武士は延命寺へ逃れ自害、三浦道寸・その子義意は三浦新井城で自害し三浦氏は滅亡、小田原北條氏は住吉城を使わず、住吉城は廃城となりました。

「逗子町誌」による住吉城址について

住吉古城趾
(三浦郡誌)
住吉城趾。小坪の西北部字飯島に在り、山を背にして海を前にし要害の山城なり、築造の初詳ならず、北條早雲武相經畧の初、永正七年六月長尾爲景、上杉顯定を討ちしに早雲爲景に通じて此城を守る、後三浦道寸の支城となり、永正九年八月早雲道寸を岡崎城へ攻め、道寸退きて此に陣し、更に新井城に籠る、後久しく廢墟となる、現在其の地に住吉神社あり。(「逗子町誌」より)

新編相模国風土記稿による住吉城址について

(小坪村)
住吉古城蹟
正覺寺院内住吉明神の社地是なり、背は山に據り前は海に臨み要害の山城なり、造築の始詳ならず、永正七年長尾六郎爲景蜂起の時、北條新九郎入道早雲、假に當所の古城を取立て楯籠る(上杉憲房上乗院呈する書曰、伊勢新九郎入道宗瑞長尾六郎と相談、相州へ令出張高麗寺幷住吉之古要害取立令蜂起候、【小田原記】曰、上杉の家老長尾六郎爲景逆心を起し、永正七年六月顯定を討取申しける、小田原の城主伊勢新九郎早雲も彼六郎と一味して、已に相州住吉の城を取立出張す、去程の上田蔵人入道武州神奈川へ打て出熊野權現山を城郭に取立、小田原の宗瑞と引合謀叛の色を立にけり、早雲小田原には子息新九郎をとどめ、吾身は松田大道寺以下の軍勢を引率し、高麗寺山、幷住吉の故城を取立たてこもる)されど早雲も須曳にして當寺をすてしかば、後三浦介義同が抱城となりしにや、同九年には義同岡崎の居城を北條早雲に攻落され、姑く當城に遁れしが又此城をも沒落して三浦城に奔し事【小田原記】に見ゆ(三浦介義同永正九年八月十三日、小田原早雲に岡崎城を攻落され、搦手より落て同國住吉の城に落行ける、其後亦住吉をも落されて三浦の城へ落行)其後廢城となりし年代詳ならず(按ずるに、北條氏當國併呑の後廢却せしにや小田原分國より以来當城の事諸記録に見えず、)(新編相模国風土記稿より)


住吉城址の周辺図