田端水神稲荷神社|北区田端の神社

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田端水神稲荷神社|矢部家の屋敷神として勧請

田端水神稲荷神社の概要

田端水神稲荷神社は、北区田端にある神社です。田端水神稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、田端の旧家矢部家の屋敷神として勧請され、水神稲荷と呼ばれ、元禄年間(1688-1704)頃には既に祀られていたといいます。地元の田端在家町会に懇願され、社地・社殿を譲渡、戦後は水神稲荷講が護持しています。

田端水神稲荷神社
田端水神稲荷神社の概要
社号 水神稲荷神社
祭神 水神・稲荷神
相殿 -
境内社 -
祭日 毎年3月初午
住所 北区田端2-4-1
備考 -





田端水神稲荷神社の由緒

田端水神稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、田端の旧家矢部家の屋敷神として勧請され、水神稲荷と呼ばれ、元禄年間(1688-1704)頃には既に祀られていたといいます。地元の田端在家町会に懇願され、社地・社殿を譲渡、戦後は水神稲荷講が護持しています。

「「北区史民俗編」」による田端水神稲荷神社の由緒

水神稲荷神社
水神イナリサマとも呼ばれる。
大久寺所蔵の「明治時代田端附近略図」(口絵)では、ほぼ中央下部の大木の根本に、水神稲荷が描かれている。
この稲荷はもとは、その付近の旧家、矢部家地内の屋敷神であった。この図に見るように、現在暗渠となっている谷田川が前を流れていて、稲荷の前には野菜の洗い場があったという。絵では、現在のような南向きではなく、東向きに鳥居があり、その前に参詣する人を描いている。
矢部家の人の話では、この稲荷は元禄(一六八八~一七〇四)頃からあったと伝えられ、昔から水神稲荷と呼ばれていたという。どこから勧請したかは定かではない。
矢部家の屋敷神であった頃も三月の初午に祭りを行い、子供たちにおこわを配ったという。大人たちはそれほど集まらなかったが、油揚げなどを供えに来ていた。祭儀の時には十人ぐらいは参列していた。
このように地元の人々の尊崇が厚かったので、町会から懇願されて、その社地とともに社殿を町会に譲った。戦前は田端在家町会(田端宮元自治会の前身であるが、範域は定かではない)が、戦後は水神稲荷講が祭祀している。講員は現在、地元の人々を中心に百五十人ほどいる。
この水神稲荷は、「田端深井戸」とも呼ばれたという。(「「北区史民俗編」」より)

田端水神稲荷神社の周辺図