紀州神社|北区豊島の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

紀州神社|紀州熊野の鈴木重尚が豊島左衛門清光に諮り創建

紀州神社の概要

紀州神社は、北区豊島にある神社です。紀州神社は、元亨年中(1321-24)、紀州熊野の鈴木重尚が豊島左衛門清光に諮り、王子村に勧請したといいます。天正年中(1573-92)争論があり、小名宮ノ前に、更に小名馬場に遷座後、当地に遷座したといいます。

紀州神社
紀州神社の概要
社号 紀州神社
祭神 五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命
相殿 -
境内社 事比羅神社、三峯神社
住所 北区豊島7-15-5
祭日 -
備考 -



紀州神社の由緒

紀州神社は、元亨年中(1321-24)、紀州熊野の鈴木重尚が豊島左衛門清光に諮り、王子村に勧請したといいます。天正年中(1573-92)争論があり、小名宮ノ前に、更に小名馬場に遷座後、当地に遷座したといいます。

新編武蔵風土記稿による紀州神社の由緒

(豊島村)紀州明神社
村の鎮守なり、祭神は素盞嗚尊、五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命の四神なり、社傳を閲るに昔元享年中と嶋氏、紀伊國熊野権現を冩して、王子村に一社を造立し若一王子と崇め、又同國名草郡五十太郎の神社をも同村に勧請して紀州明神と稱ふ、是當社なり、其後天正年中當村と王子村争論のことありしに、己か村の産神を王子村に置んも本意ならすとて、後今の社地へ移せり、其舊蹟は今も除地と成てありと云、去と元享年中王子権現を勧請せしと云は誤なり、彼社は其以前に造立ありしことは考證あり。
神主鈴木権頭光景。紀伊國熊野鈴木氏の苗裔にして、元享年中二郎左衛門重尚と云者王子村に来り豊島氏と相謀て當社を造営す、重尚十二世の孫彌三郎の時天文十七年當村に移住せり、夫より五世八左衛門と云者兄大太郎か家を継、其孫右近常表京都吉田家の配下となり、伊賀守と稱す常表より今の光景まで五代に及ふと云。
飛鳥社(新編武蔵風土記稿より)

「東京都神社名鑑」による紀州神社の由緒

縁起によると、元亨年中(一三二一-四)後醍醐帝の御宇、紀州名草郡五十太祁神社(紀州一の宮)を、豊島景村左近大夫従五位下が若一王子に勧請した。これが当社という。『新編武蔵国風土記稿』に、「紀州明神は豊島の鎮守なり。紀伊国熊野穂積姓鈴木氏の苗裔二郎左衛門重尚王子村に来たり、豊島左衛門清光と相謀り、王子村に勧請し紀州明神と称す。是れ当社なり、其の後天正中(一五七三-九二)王子村と争論のことあり、己が村の鎮守神を他に置くは本意ならずと小名宮の前(現豊島五丁目団地内)に引移せしが、のち当社地に移す」とある。本祭神は樹木に功績のある神で、はじめ朝鮮に渡ったが、地味にあわずと申し云々。本土紀伊の国に至り樹木を植え、いわゆる木の国の名所となった。(「東京都神社名鑑」より)

「北区史」による紀州神社の由緒

紀州神社(豊島)
村社紀州神社は豊島の鎮守神で、小名中豊島の中央に鎮座し、祭神は五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三柱である。武蔵風土記にはスサノヲノ命を加えている。本社は元享中紀州熊野の鈴木二郎左衛門重尚という者が王子村に来つて豊島氏と謀り、紀州名草郡五十太村の五十猛神社を勧請して、王子権現境内に創建したのであるが、天正年中王子村と豊島村と争論あつた際に、村内の小名宮の前の地へ引移し、次いで小名馬場へ移し、後今の社地へ移したものであると云はれている。いづれにしても紀州神社が、豊島氏と關聯のあつたものであることは疑のないことで、紀州三上の庄の地頭たりし有経から景村の時代(承久から建武の頃)を中心として、当時北豊島一帯にその勢力大なるものありし豊島氏が、紀州の神社を分祀して、これを尊信し守護神としたのであろう。武蔵風土記稿、神主鈴木権頭光景について記し、(中略)とあつて、天正年間王子より豊島村に移つた時の争いには鈴木氏が王子に移住している關係をもつていたものの如くである。江戸時代の狂歌師として知られている平秩東作二世は神官克村の俳号であると云う。境内二百二十九坪五勺。例祭は十月十八日である。
王子権現と云い、紀州神社と云い、船方神社といい、いづれも紀州熊野権現と關係がある点は注意すべきで、勿論平安朝末の熊野進行流行によつて祀られたものであろうが、豊島有経の紀州三上の庄の地頭であつたこととも深い關係のあるもののようである。(「北区史」より)

北区文化財案内による紀州神社の由緒

祭神は現在、五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命ですが、「新編武蔵風土記稿」には、このほかに須佐之男命の名が記されています。
元亨年中(1321-24)、紀州熊野の鈴木重尚が王子村にきて、豊島氏とはかり、紀州五十太祗神社を同村に勧請したのに始まり、天正年中(1573-92)豊島村と王子村との間に争論が起こった際、豊島村の産土神を王子村に置くのは本意ではないと小名宮ノ前に移し、更に小名馬場に移し、後に現在地に移したものといわれます(新編武蔵風土記稿)。ここでいう豊島氏は、豊島景村のことと推定されます。(北区文化財案内より)

北区神社めぐりによる紀州神社の由緒

鎌倉時代後期、紀州和歌山にある伊太木曽神社を、同村に勧請したのがはじまりであり、水の神様として知られている。(北区神社めぐりより)


紀州神社の周辺図