西ヶ原一里塚|日光御成道二番目の一里塚
西ヶ原一里塚の概要
西ヶ原一里塚は、北区西ヶ原にある名所旧跡です。西ヶ原一里塚は、江戸幕府が街道の行程を示すために一里(約4km)毎に築いた塚の一つで、西ヶ原一里塚は日光御成道(岩槻街道)の二番目の塚です。一里塚が残されているのは都内では稀で国史跡に指定されています。
名称 | 西ヶ原一里塚 |
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みどころ | 桜 |
区分 | 史跡 |
住所 | 北区西ヶ原2-13・14先 |
備考 | - |
西ヶ原一里塚
西ヶ原一里塚は、江戸幕府が街道の行程を示すために一里(約4km)毎に築いた塚の一つで、西ヶ原一里塚は日光御成道(岩槻街道)の二番目の塚です。一里塚が残されているのは都内では稀で国史跡に指定されています。
新編武蔵風土記稿による西ヶ原一里塚について
(西ヶ原村)
里塚
村の北日光御成道にあり、日本橋より爰に至る迄二里。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による西ヶ原一里塚について
国指定史跡
西ヶ原一里塚
慶長九年(一六〇四)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通が主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。(東京都北区教育委員会掲示より)
西ヶ原一里塚に関する他文化財
- 二本榎保存之碑
二本榎保存之碑
二本榎保存之碑 西ヶ原2-47
一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。(東京都北区教育委員会掲示より)
西ヶ原一里塚の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿