谷戸三輪神社|大黒天(第六天)を勧請して創祀
谷戸三輪神社の概要
谷戸三輪神社は大田区大森西にある三輪神社です。谷戸三輪神社は、江戸時代初期に大黒天(第六天)を勧請して創祀、谷戸部落・大森西の鎮守だったといい、明治7年三輪神社と改めたといいます。
社号 | 三輪神社 |
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祭神 | 大国主命 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社 |
祭日 | 例祭日10月3日 |
住所 | 大田区大森西5-18-5 |
備考 | - |
谷戸三輪神社の由緒
谷戸三輪神社は、江戸時代初期に大黒天(第六天)を勧請して創祀、谷戸部落・大森西の鎮守だったといい、明治7年三輪神社と改めたといいます。
境内掲示による谷戸三輪神社の由緒
谷戸三輪神社由緒
往古、鎌倉時代幕府の家人、此地を領せし故、谷戸の地名興りしと謂れます。口碑、伝承に因れば、此集落の西端れ杜木立のうちに氏神さまを祀りたる小祠ありしが、江戸時代の初期の頃、地震、洪水など天災地変相次で起りし故、里人ら相計り、当時、出雲信仰が朝野の崇敬を集むる時勢に鑑み、里人らもまた、深く信仰する大黒さま(大国主命)を勧請し、諸災祓除五穀豊穣の願いをこめて、堂宇を改め、第六天社と称え奉ったとされます。此頃、谷戸部落は二十数戸と覚しき辺鄙の里に過ぎざりしが、人々の信仰心厚く、凪し早くから社殿を整備し、之を宜く護持した別当寺は密乗院大森寺でありました。
爾来、幾星霜ともなく西大森村の鎮守として人々の崇敬を集め、里言葉にて、”でえろくさま”と、親しみ称え奉り、また、数少ない北向きの社としてもその名が知られ、文化文政時代の御社殿は間口二間、奥行九尺と古書に記されております。
時代降って、明治維新に際しては、神仏分離令の布告、神社明徴化の機運に伴い、明治七年、社号を三輪神社と改め奉りましたが、此頃の氏子は四十二戸、二百三十六人でありました。更に時移り、太平洋戦争中、空襲に因り、全社殿を焼失しましたが、氏子一同宜く再建に努め、また、戦後の宗教改革に当り、宗教法人の認承を受け、昭和二十九年宗教法人三輪神社と改りました。末社、稲荷社は年代不詳ながら江戸末期の創祀と伝えられ、祭神は宇迦之御魂命と称え奉り、宇迦はウカ(食)にして食物一切を司さどる霊験あらたかな庶民の守護神であります。(境内掲示より)
「大田区の神社」による谷戸三輪神社の由緒
江戸初期の創立といわれ、元は第六天社と呼ばれていた。江戸時代には大森村のうちの西大森村の鎮守であった。(「大田区の神社」より)
新編武蔵風土記稿による谷戸三輪神社の由緒
(東大森村・西大森村・北大森村)第六天社
除地十二歩、西大森村の中央にあり。社二間に九尺北に向ふ。前に鳥居を立。例祭九月二十一日、北大森村密乗院持下同。(新編武蔵風土記稿より)
谷戸三輪神社の周辺図