大森貝塚碑|モース博士と交友のあった6名が発起人となり建立
大森貝塚碑の概要
大森貝塚碑は、大田区山王にある名所旧跡です。大森貝塚碑は、大森貝塚を明治10年に発見・発掘し、日本文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士が大正14年に逝去、訃報を知ったモース博士と交友のあった6名が発起人となり、大森貝塚碑を昭和5年に建立したといいます。昭和30年には国史跡に指定されています。
名称 | 大森貝塚碑 |
---|---|
みどころ | 国指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 大田区山王1-3-3 |
備考 | - |
大森貝塚碑について
大森貝塚碑は、大森貝塚を明治10年に発見・発掘し、日本文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士が大正14年に逝去、訃報を知ったモース博士と交友のあった6名が発起人となり、大森貝塚碑を昭和5年に建立したといいます。昭和30年には国史跡に指定されています。
境内掲示による大森貝塚碑について
大森貝塚碑の由来
大正一四年一二月、大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士の訃報(ふほう)が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郎・白井米二郎・佐々木忠次郎・松村瞭・宮岡恒次郎の六名が発起人となり、大森貝塚の顕彰(けんしょう)とモース博士の偉大なる功績(こうせき)を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。その場所は、発掘に参加した佐々木忠次郎の口誌と記憶、ならびに当時の地形、立木、村道の位置、大森駅との距離などにより、小林脳行店主の白井米二郎の所有地(東京府荏原郡入新井町新井宿山王下二五五番地・現在の大田区山王一丁目二番一号)とされた。
二一名の研究者らが発起人となり建碑を呼びかけたが、昭和二年にアメリカで起きた世界恐慌(きょうこう)が日本にも及び、献金は集まらず、白井米二郎が土地と資金を提供し、大森貝塚碑が完成したと、佐々木忠次郎は語っている。
除幕式は、昭和五年四月一三日におこなわれた。碑の材料は仙台石で、高さ六尺、幅三尺、これに二段の台石を据(す)え、碑の表面には碑名、英文記事、発起人の使命を刻(きざ)み、裏面にはモース博士の貝塚発見の由来を彫(ほ)った。
昭和三〇年三月二四日、大森貝塚碑は品川区の大森貝塚遺跡庭園内にある大森貝塚碑とともに国の史跡に指定された。
史跡大森貝塚碑は、日本の歴史に輝きをあたえた大森貝塚とその発掘者モース博士をたたえるとともに、師を敬愛する明治期の人々の意気が感じられる。私たちはこの碑を国の文化財の象徴として、末永く保存管理する使命をもっている。(東京都大森貝塚保存会掲示より)
境内掲示によるモース博士と大森貝塚について
モース博士と大森貝塚
アメリカのエドワード・シルベスタ・モース博士は、明治10年(1877)6月横浜から新橋へ向う車窓で、大森貝塚を発見しました。そこで土器、石器、人骨など多数の資料を発掘し、その成果を「SHELL MOUNDS OF OMORI」として刊行しました。この発掘が日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献するとともに日本の先史文化を海外にも広めました。
モース博士は東京大学の動物学の教授となり、進化論を最初に紹介したり、国内を広く旅行して多くの人々と交流を深め、日本陶器や風俗を研究して、日本文化を海外に紹介し、日米文化交流の上に偉大な功績をのこしました。また独立心と独創性をもち、たえず社会のために民主的な行動をとり、豊かな人間性をもった人物として尊敬されています。
このたび大森貝塚発掘100年を記念し、偉大な学者の功績をたたえるとともに大森貝塚の重要性を永遠に伝えます。(東京都大森貝塚保存会・日本電信電話公社掲示より)
大森貝塚碑の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿