用明山秀明寺|花園天皇の侍臣秀明が開基
秀明寺の概要
真言宗智山派寺院の秀明寺は、用明山と号します。秀明寺の創建年代は不詳ですが、花園天皇が刻ませた聖徳太子像を本尊として、花園天皇の侍臣秀明が開基となり創建したと伝えられます。玉川八十八ヶ所霊場83番です。
山号 | 用明山 |
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院号 | - |
寺号 | 秀明寺 |
本尊 | 木造聖徳太子立像 |
住所 | 大田区本羽田1-3-11 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 玉川八十八ヶ所霊場83番 |
秀明寺の縁起
秀明寺の創建年代は不詳ですが、花園天皇が刻ませた聖徳太子像を本尊として、花園天皇の侍臣秀明が開基となり創建したと伝えられます。
「大田区の寺院」による秀明寺の縁起
寺伝によれば、慶長元年(1596)花園天皇は聖徳太子16歳の姿を刻ませ、有縁の地を求めて、侍臣秀明に、浪花の海に投ぜさせられたところ、荏原部羽田浦に着いた。土地の人は、これを堂に移して供養した。その後、秀明はこの地に来たり、1宇を建てて秀明寺としたといわれる。
「新編武蔵風土記稿」によれば、『開山開基、創建年代詳ならず、本堂は京師より工匠を招き下して造りしとぞ、実にそのきま普通の堂と同じからず、聖徳太子の像、作仏とのみ伝えて彫刻の人を伝えず』と記している。(「大田区の寺院」より)
新編武蔵風土記稿による秀明寺の縁起
秀明寺
除地4段、村の西南の隅にあり。新義真言宗、高畑村宝幢院末、川明山と号す。開山開基及び創建の年代詳ならず。本堂5間半四方、相傳ふこの堂は京都より工匠を招き下して造りしとぞ。実に其さま普通の堂と同じからず。聖徳太子の像、作佛とのみ伝えて彫刻の人を伝えず。世人崇信して参詣の人多。
寺宝曼陀羅。此曼陀羅は何人の宝と云事を傳へず。此邊に住せし買人の奉納せしなり。其由緒を尋ぬるに、買人は故紙を買ふことを家業とせし、貧寠のものなり。一日此一軸を買得て当寺へ寄附せしを、利益の聞えありて、参詣の人日々に多く、買人もこれが為にあまたの利潤を得て富を致すに至れり。当寺太子の世に聞えしも、其実はこの曼陀羅の利益によれりとぞ。
古碑。境内にあり。光銀大徳明応9年4月16日と刻せり。(新編武蔵風土記稿より)
秀明寺の周辺図