古川薬師安養寺|大田区西六郷にある真言宗智山派寺院

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古川薬師医王山安養寺|古川薬師、玉川八十八ヶ所霊場

古川薬師安養寺の概要

真言宗智山派寺院の安養寺は、医王山と号します。永伝法印(永禄11年1568年寂)が創建、栄伝が中興開山と伝えられます。境内の薬師堂は行基(667-749)の創建と伝えられ、安養寺は、薬師堂(古川薬師)の別当寺を務めていました。玉川八十八ヶ所霊場69番、東海三十三観音霊場19番です。

古川薬師安養寺
古川薬師安養寺の概要
山号 医王山
院号 -
寺号 安養寺
住所 大田区西六郷2-33-10
本尊 金剛界五智如来
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場69番、東海三十三観音霊場19番



古川薬師安養寺の縁起

古川薬師安養寺は、永伝法印(永禄11年1568年寂)が創建、栄伝が中興開山と伝えられます。境内の薬師堂は行基(667-749)の創建と伝えられ、安養寺は、薬師堂(古川薬師)の別当寺を務めていました。

「大田区の寺院」による古川薬師安養寺の縁起

「新編武蔵風土記稿」によると、当寺の開山永禄11年(1568)に寂した永伝であるといわれ、寺内にある薬師堂は、行基(667-749)の創建と伝えられる。聖武天皇のとき、光明皇后の皇子誕生に際し、御乳がでないため、諸寺に祈願きれたがその験なく、行基に尋ねられたところ、当所薬師仏霊験著しく、銀杏の木を奉納すれば、たちどころに成就すると奏上した。型の如く奉納されると、御乳満足され、当寺に七堂伽藍を寄進されたという。永禄年間(1558~69)時の地頭は当寺の繁栄をそねみ、堂塔を破却し荒廃させたとある。
その後、別当栄伝は、薬師堂を建立し、三尊を安置したので、中興開山とされた。現在の本堂は、正徳5年(1715)に建てられたが、明冶末から大正のはじめにかけて、多摩川河川改修により、現在地に移転し、堂宇も移築された。関東大震災、昭和20年(1945)の戦災による被害もあったが、火災はまぬがれた。昭和44年(1969)本堂の改鯵を行い、現在に至っている。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による古川薬師安養寺の縁起

薬師堂
除地5反9畝5歩。村の南の方によりてあり、縁起を閲るに、和銅3年行基菩薩の草創にして、本尊は長5尺5寸、脇士弥陀釈迦の座像は各長5尺3寸。其余十二神四天王等に至る迄、皆一刀三禮の作佛なり。天牛5年3月聖武天皇后皇子を降誕ましましけるに、この皇子皇后の御乳を含み給へば、御乳汁つきて出ず、しかのみならず他人の乳をばたえて含たまはざりしかば、天皇驚かせ給ひて諸寺諸山に御祈ありしかど、更に其験なかりしにより、行基を召て詔ありしかば、やがて奏聞ありけるは、当所薬師佛の霊験これ著し、銀杏の木を御奉納あらば御願立所に成就すべしと。かくの如く銀杏を納め給ひしかば、其夜皇后霊夢を蒙りたまひ夫より御乳満足したまひけり。さてこそ叡感斜ならず、御堂御造立の宣旨ありて、七堂伽藍善美を盡せりと。銀杏樹奉納のことは、境内かの樹の條に出せり。されど是等の説はかの野僧の愚夫愚婦をまどはすは、虚誕の説にして歯牙にかけてとかう論ずばからず。もしこころみにいはば「皇胤紹雲図」に光明皇后の御腹には、皇子基王と孝謙天皇とのみおはせしかど、孝謙帝は養老2年の降誕にして、基王は神亀4年に生れさせ給ふと云ときは、縁起の説虚妄なる事しらるべし。又按「続日本紀」に、天平5年5月辛卯勅ありけるは、皇后御悩によりて枕席を安くし給はず、年月を経て御療養かずと盡し給へともいささかその験を得給はず。御祈祷の為強盗二盗を除きて大赦を行はるるの由を載せたり。是によれば皇后御病気御平癒の御願ありしといはばいはん歟。されども御悩にて御祷などありしは常のことなるべし。是浮屠氏例の付会に出たる説なる事勿論なり。又縁起に、永禄の頃までも昔の如く七堂伽藍の霊地なりしに、時の地頭諸宗責伏の宗派にて当寺の繁栄をそねみ、堂塔を破却し、本尊以下を地上にすて置て風雨にさらしけるにより、堂宇ながく廃失せりと云り。按に永禄の頃六郷の地頭行方弾正明連、法華宗に固執し、他宗の寺院の己が領地にあるかぎりは法華の教に帰伏せしめ、其従はざる者は堂宇を廃し僧徒を追捕せしと、此邊の語り傳へにも云なれば、当初を破却せしも行方が所為なるべし。其後領主もかはりければ、其頃の別当栄傳と云者、仮に5間4間の堂を造りて三尊を安置せり。それより156年を経て正徳6年に至りて、今の堂は建立せしと云。大さ6間に5間、すべて萱葺なり。医王堂の三字を扁す。蘗僧高泉の筆、鰐口に延宝6年戌午天9月8日と彫刻せるなり。
門。
両控作なり。南に向ふ両柱の間2間、控の間各1間。
鐘楼。
門をいりて右のかたにあり。鐘の径2尺5.6寸享保の銘文あり。文中考証すべきことなし。
銀杏樹二株。
堂の前両側にならびたてり。二株共に古木にて、大さ三囲ばかり。老樹ゆへ所々にうろあり。枝ごとに癌の如く肉たれさがりたり。俗に是を乳といふものなり。幹も昔は数十丈ありしなるべけれど、今は地上1丈余上より朽おれて、蘗生ひ出しもの直暢してしけりあへり。産婦乳の乏きとき、この木に折れば験あり、又病者にも奇特ありといひ傳ふ。樹下に石標をたてて枝葉を折とることを禁止す。縁起によれば光明皇后御乳を祈りたまひしとき、行基の奏聞により此木を舟中へ植しめられ、海上へ流しやりたまひければ、当所薬師堂の前なる入江に著せり。土人驚きみたるに天皇より納め給ふよしをしるせる札をつけたり。よりて二根を堂の前にならべ植しかば、舟は夜中にたちまち水底に沈みけると云へり。是もうけがたき説なれども、古木なることは疑ふべからず。
杉。
薬師堂に向ひて右の脇にあり。させる古木と云にもあらざれども、太一囲に余れる樹根にわづかのうろありて、水わき出す。是を薬師の霊水と称す。
五智如来堂。
杉樹の東にありて、薬師堂と並べり。4間半に4間2尺。如来の像5体、及び閻魔の像を安ず。
青龍権現社。
堂に向て左の方にあり。わづかなる小祠なり。
稲荷社。
同じ並にあり。左の方。
裏門。
表門のならびにあり。
別当安養寺。
境内5段7畝23歩。薬師堂の東の地につづきてあり。新義真言宗、高畑村宝幢院末、医王山と号す。当宗の開山永傳法印永禄11年2月3日寂す。昔は他宗なりと云傳れど詳にせず。
寺宝。
牛王木版。行基菩薩彫刻なりと云、其文に医王印云々、以下漫滅して読かたければ略せり。
石地蔵。
門外松の並木の中にたてり。頗る古き物なり。(新編武蔵風土記稿より)


古川薬師安養寺所蔵の文化財

  • 木造薬師如来坐像(東京都重要文化財)
  • 木造釈迦如来坐像(東京都重要文化財)
  • 木造阿弥陀如来坐像(東京都重要文化財)
  • 古川薬師道道標(大田区指定文化財)
  • 銀杏折取禁制碑(大田区指定文化財)
  • 仏像群(大田区指定有形文化財)
  • 富士講碑(大田区指定有形民俗文化財)

古川薬師道道標

延宝2年(1674)に、東海道筋の雑色から、多摩川道に入る分岐点に建てられた道しるべで。のち区画整理のため、現在の安養寺(古川薬師)門前に移された。
正面と両側面に、古川薬師への分かれ道であることを示す銘文が刻まれている。
東海道の道筋に建てられた道標では、区内に残る二基のうちの一基であり、江戸時代の交通史上貴重である。(大田区教育委員会掲示より)

銀杏折取禁制碑

碑の高さ148cm、幅27cm、厚さ18cm。
薬師堂前には、古くから乳いちょうが二株あり、人びとは昔から、これに折れば乳が出ると信じ、いちょうの下垂の乳部を削り取るものが多かった。
碑はその行為を禁止するため、元禄3年(1690)に当寺の住職栄弁によって建てられたもので、一種の聖域保護の禁制碑として注目される。
太田南畝(蜀山人と号す、1749-1823)は「調布日記」に「大きな牛をかくすといひけん大木の銀杏二本ならびたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記している。
現在の樹は、その木の実より生じたものという。(大田区教育委員会掲示より)

古川薬師安養寺の周辺図