深沢神社|世田谷区深沢の神社

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深沢神社|兎々呂城主谷岡重頼が三島社として創建

深沢神社の概要

深沢神社は、世田谷区深沢にある神社です。深沢神社は、兎々呂城主谷岡重頼が、永禄7年(1564)伊豆国の三島神社の分霊を勧請して三島社として創建、大正4年11月村内にあった神明社二社、稲荷社二社、等を合祀したといいます。

深沢神社
深沢神社の概要
社号 深沢神社
祭神 天照皇大神・大山都見尊・倉稲魂命
境内社 深沢弁天社
相殿 -
祭日 例祭10月1日
住所 世田谷区深沢5-11-1
備考 -



深沢神社の由緒

深沢神社は、兎々呂城主谷岡重頼が、永禄7年(1564)伊豆国の三島神社の分霊を勧請して三島社として創建、大正4年11月村内にあった神明社二社、稲荷社二社、等を合祀したといいます。

せたがや社寺と史跡による深沢神社の由緒

祭神は天照皇大神・大山都見尊・倉稲魂命、もと三島神社といい、小田原城主北条氏の家臣で豆相及び下総国の一部を領有していた深沢村の兎々呂城主谷岡重頼が、永禄7年(1564)伊豆国の三島神社の分霊を勧請したものという。「新編武蔵風土記稿」によれば、この重頼三島の地をも領し、殊に三島社を尊信したので、遥拝のために此所に移したものという。神体は金像で古物というとある。「社は二間に一間、社前に池あり、中に三の小島を築き、何も丸木橋を渡せり、池の前後に鳥居あり、何も両柱の間九尺、すべて西に向へり」と記している。
大正4年11月、社殿および神楽殿の改築の後、村内にあった7社、すなわち慶長3年(1598)伊勢外宮(天祖神社)、伊勢内宮(伊勢神社)を、元和元年(1615)山城国石清水八幡宮(八幡神社)を移し、寛永2年(1625)山際御嶽神社、稲荷神社2社を三島神社に合祀して、神社名も地名により深沢神社と改称した。「神明社除地一段歩、村の西方古塁跡にあり、昔このほとりの住人、小谷岡兵衛尉重長の命によりて伊勢の内宮を此地に勧請す、(中略)年歴詳ならず、社は一間に一間半、鳥居も立り、共に北向」きであり、他の神明社は、「除地二十五歩南の東にあり、(中略)重継の命によりて伊勢の外宮を勧請す、本社一間に一間半、拝殿二間四面、鳥居共に南向」で百姓持であった。例祭は10月1日である。
境内の池には片目の鯉の伝説がある。境内の弁天様に眼病で苦しむ人々が願をかけ、身替りに鯉の目をつぶして池に放したものであるという。境内に菩提樹が多い。
もと此処に掻上の小城があり、北条氏の家臣南条右京亮重長が居たと伝えている。
本社は昭和42年11月、鉄筋コンクリートの神明造に新築された。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による深沢神社の由緒

(深沢村)
神明社
除地一段歩、村の西の方古塁跡にあり、昔このほとりの住人小谷岡太兵衛尉重継父重長が命によりて、伊勢の内宮を此地に勧請せしと云、年歴詳ならず、社は一間に一間半鳥居も立り共に北向なり。
神明社
除地二十五歩村の東にあり、是も同じ頃にや重継父の命によりて伊勢の外宮を勧請す、本社一間に一間半拝殿二間四面鳥居共に南向百姓の持。
三島社
除地一段歩南の方にあり、相傳ふ当社は小谷岡重長が父山城神重頼といひしもの、此地を領せし頃永禄七年伊豆国三島大明神を勧請す、其故は此重頼三島の地をも領し、ことに彼神社を尊信しければ、遥拝の為にとて此所へ移せしなり、神体は金像にして古物なりといへども、今は猥に他人の見ことを許さず、社は二間に一間社前に池あり中に三の小島を築き何も丸木橋を渡せり、池の前後に鳥居あり、何も両柱の間九尺すべて西に向へり。
稲荷社
鳥居の左右にあり二社ともにわづかの祠なり。(新編武蔵風土記稿より)


深沢神社の周辺図