駒留八幡神社|世田谷区上馬の神社

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駒留八幡神社|北条左近太郎入道成願が社殿を造営

駒留八幡神社の概要

駒留八幡神社は、世田谷区上馬にある八幡神社です。駒留八幡神社は、当地の領主北条左近太郎入道成願が徳治3年(1308)社殿を造営し駒留八幡と称したといいます。その後、世田谷城主吉良頼康が、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称し、また母常盤を辨財天として祀ったといいます。

駒留八幡神社
駒留八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 天照大神、応神天皇
相殿 -
境内社 厳島神社、御嶽社、三峯・榛名・菅原社、駒留稲荷神社、女塚社、戦没者慰霊殿
祭日 -
住所 世田谷区上馬5-35-3
備考 -



駒留八幡神社の由緒

駒留八幡神社は、当地の領主北条左近太郎入道成願が徳治3年(1308)社殿を造営し駒留八幡と称したといいます。その後、世田谷城主吉良頼康が、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称し、また母常盤を辨財天として祀ったといいます。

新編武蔵風土記稿による駒留八幡神社の由緒

(馬引澤村)八幡社
除地七百六十三坪、上馬引澤の中ほどにあり、そのところの鎮守なり、駒留八幡と稱す、鎮座の年代その詳かなることをきかす、身體は左の手に半弓を執て巌上に立たまふ長一寸三分の像なり、相傳ふ天和年中領主大久保伊賀守本尊経塚駒留八幡宮、北條左近太郎成願奉安鎮所、徳冶三戊申年十月二十三日と錆たる銅板あり、按に此銅板の文は疑ふべし、全く経筒によりて後世いかにも此本尊の古くより建ることをしらしめんが為、いつの頃にや住僧のかく修し置るものと見えたり、経筒の文によれば尤古社にして、その證も亦明かなれば、徳治の頃よりも前に建し社と見ゆるを、かくしなせるはおこのわさならずや、又の傳へに始め左近太郎この地へ八幡宮を勧請せしとて、馬に打乗その止る所こそ鎮座の地なれど新誓せしが、果してこの地にとどまりし故宮を造営し、駒留八幡とは祝ひ祭りしと、これも後世よりいひなせしことにて、駒留八幡と云には別にゆへあるも知べからず、社頭は高さ所にて前に石階二十級を設けり、丘上には老松数十株ありて神さびし宮地也。
相殿一座若宮八幡。相傳ふ永禄の頃世田谷の城主、吉良左兵衛佐頼康の寵妾常盤と云しものありしが、故有て横死せり、その頃懐妊の身なりしかば堕體して男子の死骸出たるを、頼康ききてことにいたありて愁嘆の余若宮八幡にまつりて当社に納むと、事は若林村の條にも載せたり。
本社。拝殿二間に三間半、これより石階を歴て内宮に至る、内宮二間に九尺、前に石燈籠二基を立。
鳥居。社地の入口にあり両柱の間九尺。
末社。天神社、本社に向ひ右の丘の中腹にあり。稲荷社、同じあたりにあり。弁天社、鳥居に向て左方池中にあり、常盤の霊をまつると云、当社に附し除地別に十三歩あり。(新編武蔵風土記稿より)

世田谷区教育委員会掲示による駒留八幡神社の由緒

駒留八幡神社(若宮八幡)
祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成願は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治三年(一三〇八)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母と際を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。(世田谷区教育委員会掲示より)

せたがや社寺と史跡による駒留八幡神社の由緒

駒留八幡神社(上馬5-35-3)
祭神は天照大神、応神天皇、その神像の背部に「最明寺時額公守本尊、経塚駒留八幡宮北条左近太郎入道成願奉安鎮所、徳治三戊申年十月二十三日」と記した銅板が立ててある。これは北条相模守時頼朝臣尊崇の霊像で、神体は約1寸5分、左手に弓を持ち岩上に立った姿である。
当社の創建は不詳であるが、天和2年(1682)この地の領主大久保忠誠が当社を修造の時、経塚という地から一壷を発見した。その中に紫銅の経筒があり、徳治3年北条左近太郎入道成願、沙弥見仏などの名があり、その中から神体が現われ、もう一つの経筒には、法華経6部を書写し、また一千部を読誦することが銘記されていた。
忠誠は当社修造落成の日、新たに法華経6部を書写して経筒に納め、社の礎下に埋蔵し、駿河国建穏寺の僧隆範をして、遷宮の式を執行せしめたという。
吉良頼康は一社相殿として祀り、若宮八幡と称し、供米田を寄進し、家内繁栄を祈願したと伝え、その母の常盤も神前の池の中島へ弁財天として祀ったのが厳島神社である。
慶長14年(1609)以来馬引沢村は大久保氏の領地となり、代々この社を上馬の鎮守とあがめ、天和2年(1682)に鳥居額を奉納した。
寛政11年(1799)大久保伊賀守藤原忠雄は、社殿、厨子を修復寄進し、幣帛料として田地3反5畝を奉納した。明治40年8月に駒留八幡宮と改称された。
国学者高田与清の「世田谷紀行」には、近くの稲荷社に鞍掛松あり、左近太郎が鞍を掛けた木であったが、30年ほど前に枯れてしまったと記している。(せたがや社寺と史跡より)


駒留八幡神社の周辺図