野毛六所神社|世田谷区野毛の神社

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野毛六所神社|府中の方から流れてきた社を祀り創建

野毛六所神社の概要

野毛六所神社は、世田谷区野毛にある六所神社です。野毛六所神社は、元和年間(1615-1623)の洪水のとき、府中の方から流れてきたというので、土地の人は六所明神(現大国魂神社)と崇めて創建したといい、江戸時代には上下野毛村の鎮守社だったといいます。明治31年に村内の末社天祖神社、山際神社、日枝神社、北野神社の4社を合祀しています。

野毛六所神社
野毛六所神社の概要
社号 六所神社
祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊
相殿 -
境内社 北野神社
祭日 例大祭9月26日
住所 世田谷区野毛2-14-2
備考 旧上野毛村・下野毛村鎮守



野毛六所神社の由緒

野毛六所神社は、元和年間(1615-1623)の洪水のとき、府中の方から流れてきたというので、土地の人は六所明神(現大国魂神社)と崇めて創建したといい、江戸時代には上下野毛村の鎮守社だったといいます。明治31年に村内の末社天祖神社、山際神社、日枝神社、北野神社の4社を合祀しています。

せたがや社寺と史跡による野毛六所神社の由緒

六所神社は元和年間(1615-1623)遷座と伝え、古くより上下野毛両部落の鎮守で、上下野毛境にあった。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊で、例祭は9月26日である。
明治31年に村内の末社天祖神社、山際神社、日枝神社、北野神社の4社合祀となり、新たにその祭神天照大神、大山都見之命、大山咋之命、菅原道真を現在地に奉斎した、ただし、合祀社は明治23年に天祖神社に合祀したものを、さらに六所神社に合祀したのである。
「新編武蔵風土記稿」によると、「除地一段五畝、(中略)上屋九尺二間、本社六尺に八尺西向なり」とある。この社は昔洪水のとき、府中の方から流れてきたというので、土地の人は六所明神と崇めて1社を草創したという。鳥居も西向きに立て、別当は善養寺であった。
現在、鉄筋コンクリート造の社殿を建造中で11月に落成する。整地の際、石鏃・縄文土器片が多数発見された。近くに六所東貝塚があった。縄文前期に属する、黒浜式と諸磯式で、多摩川にに面する斜面に形成されていた。貝塚にはヤマトシジミ・ハマグリ・マガキ・アカニシ・キサゴ・イオフキなどがあり、当時は東京湾の海水が浸入していたことを思わせるが、ヤマトシジミが多いことはすでにこの付近は河口になっていたことを示しているのかも知れない。もちろん竪穴住居が設けられていた。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による野毛六所神社の由緒

(下野毛村)六所明神社
除地一段五畝、西北の間上野毛堺にあり。よりて上下野毛村の鎮守とす。上屋九尺二間、本社六尺に八尺西向なり。相傳、此社は昔洪水の時多摩郡府中の方より流れ来るものあり、此所の榎の枝にかかる、取上みればわづかの祠なり、されど何の祠なることもしられず、ただ府中の方より流れ来りぬればとて、土人打よりて六所明神とあがめ、此へ一社を草創して村の鎮守とす。是によればその起る所詳ならず、別に故あるも知べからず。鳥居も西向にたてり。祭礼は九月二十六日なり。別当は善養寺なり。
神明社
除地五畝許、字谷にあり。上屋一間半に二間なり。本社四尺に八尺、南向、鎮座の事歴詳ならず、是も村の鎮守とす。祭礼九月二十六日なり。六所明神と隔年に祭る。別当善養寺なり。
山王社
除地二畝許、字岸の下の方にあり。小祠なり。鳥居共に南西の間に向ふ。鎮座の年代詳ならず。
若宮八幡社
除地四五畝許、字根通に在、鳥居有、共に南に向へり、是も小祠なり。(新編武蔵風土記稿より)


野毛六所神社の周辺図