如法山感応寺|桂昌院殿より拝領した寺号
感応寺の概要
浄土宗寺院の感応寺は、如法山正覺院と号します。感応寺は、里見家の旧家臣影山氏の娘で、大奥に仕えていた空蓮社香譽上人清薫比丘尼が開山となり清薫寺として慶安4年(1651)に創建、桂昌院殿より寺号を賜り感応寺と改めたといいます。
山号 | 如法山 |
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院号 | 正覺院 |
寺号 | 感応寺 |
住所 | 世田谷区上馬4-30-1 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
感応寺の縁起
感応寺は、里見家の旧家臣影山氏の娘で、大奥に仕えていた空蓮社香譽上人清薫比丘尼が開山となり清薫寺として慶安4年(1651)に創建、桂昌院殿より寺号を賜り感応寺と改めたといいます。関東大震災で被災し当地へ移転したといいます。
せたがや社寺と史跡による感応寺の縁起
感應寺は(本所区)荒井町十五番地に在り。如法山と號し。正覺院と稱す。浄土宗にして浅草幡随院の末なり。
慶安四年の創立にて。開山は空蓮社香譽上人清薫比丘尼とす。尼は里見家の浪士影山氏の女にして。将軍秀忠公の大奥に仕へし者なり。砂子に初め清薫寺といひしが。「桂昌院殿御執立以後寺號を改む」とあり。(せたがや社寺と史跡より)
「本所區史」による感応寺の縁起
感應寺は荒井町十五番地に在つて如法山と號し正覺院と稱した。浄土宗にして淺草幡随院の末である。
慶安四年の創立で開山は幡随院第六世岳譽感随之弟子である空蓮社香譽上人清薫比丘尼である。尼は里見家の浪士影山氏の女であつて将軍秀忠公の大奥に仕へたものである。江戸砂子に、初め清薫寺といつたが、桂昌院の御時父君感應院殿の二字を下され以後寺號を改めたのであるといふ。元禄十五年冬寺院不殘類焼に遭つたが公儀の御助力を仰ぎ其後間もなく再建する事が出来た。しかるにこの寺も震災後大正十三年六月十六日をもつて移轉を許可されたが移轉地は未だ明でない。(「本所區史」より)
感応寺の周辺図
参考資料