野粂山乗満寺|摂津東成郡に創建、大正13年当地へ移転
乗満寺の概要
真宗大谷派寺院の乗満寺は、野粂山と号し、野粂林松院が明泉法師と力を合わせて摂津東成郡に林松寺として創建されました。その後駿府、江戸車坂(上野)へ移転、野粂山林松院乗満寺と改称、関東大震災後の大正13年、当地へ移転しました。
山号 | 野粂山 |
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院号 | - |
寺号 | 乗満寺 |
住所 | 世田谷区北烏山5-7-1 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
乗満寺の縁起
乗満寺は、野粂林松院が明泉法師と力を合わせて摂津東成郡に林松寺として創建されました。その後駿府、江戸車坂(上野)へ移転、野粂山林松院乗満寺と改称、関東大震災後の大正13年、当地へ移転しました。
せたがや社寺と史跡による乗満寺の縁起
寺伝によると、加賀国の真言宗林松寺の住僧道祐が、蓮如上人の北国教化の際に、その教えに帰依して真宗の門に入った。その後林松寺は摂州大阪・山城国伏見等に移転し、天正年間(1573-1591)に至り、嗣法の主がなく廃退に直面した時、野粂受閑なる医師が後援し、明泉法師を推載して寺の中興を計った。寺は更に駿河に移され、慶長年間(1596-1614)の入府と共に、江戸車坂に堂宇を移した。このころに山号を野粂山とし、寺号を乗満寺と改めた。大正12年9月の大震災に遭遇して、本堂庫裡を焼き、翌13年寺域600坪(1680平方メートル)を東京府に譲渡して、現在地に移転したものである。
本尊は、阿弥陀如来像が祀られ墓地には、幕末の儒学者増島蘭園明治の初めに、いち速く米国より歯科器械を輸入販売して名を成した清水卯三郎の墓等がある。(せたがや社寺と史跡より)
御府内寺社備考による乗満寺の縁起
東本願寺末 浅草不唱小名 野粂山林松院乗満寺、境内拝領地557坪半。
東照宮之御医師野粂林松院受閑儀、大旦那ニ而明泉と力を戮せ、摂州東成郡生玉ニ而一宇草創し野粂山林松寺と号す。夫より城州伏見及駿州府中ヘ移転候而又江戸車坂ニ移住いたし、右移住之年月惣而相知不申候。然ルニ明暦之末東叡山火除ニ付被召上、替地として当所ヘ移転に相成申。尤其頃新地古跡御改ニ而林松寺儀者新地ニ付乗満寺と寺号相改り、林松をもて院号ニ相唱申候。巳に宝物之裏書ニ慶長5より19年迄之内ニ而林松寺と相しるし有之候。右開基受閑儀者元和元年7月1日寂す。但開山開基送葬之地者相知不申候。
開山者尾張国古田庄川口城主水谷縫殿頭討死之砌懐妊之嫡男ニ而出家名を明泉と云。正保4年9月6日寂。
当寺二代者右受閑之七男ニ而受専と号し相続あり。承応元年12月4日寂す。依而当寺代々受之字を以通号とす。一男者大御番本多八十郎、今定次郎と言。二男松平下総守内稲葉某、今断絶せり。三男浅野但馬守内林喜三郎、是も断絶せり。四男紀州大納言様御小姓安藤帯刀、今郷右衛門。五男泉州堺浄得寺受賢。六男大御番野粂源三郎、今断絶。御家人ニ其筋有之という。巳上之五人之兄弟皆当寺之旦那なり。其内安藤氏者累代当寺と親族之因ミなりと言。
本尊立像阿弥陀如来、長さ2尺3寸余。(御府内寺社備考より)
乗満寺の周辺図