宝樹山常在寺|世田谷城主吉良頼康の愛妾常盤が開基
常在寺の概要
日蓮宗寺院の常在寺は、宝樹山と号します。忠善院日純聖人が開山、世田谷城主吉良頼康の愛妾常盤が開基となり、永正3年(1506)に創建しました。
山号 | 宝樹山 |
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院号 | - |
寺号 | 常在寺 |
住所 | 世田谷区弦巻1-34-17 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | 常在寺ホール・釈迦殿 |
備考 | - |
常在寺の縁起
常在寺は、忠善院日純聖人が開山、世田谷城主吉良頼康の愛妾常盤が開基となり、永正3年(1506)に創建しました。
せたがや社寺と史跡による常在寺の縁起
甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の末寺で日蓮宗、宝樹山常在寺という。開山は忠善院日純聖人で永正3年(1506)8月とあり、開基は大平出羽守の娘、吉良氏の童、常盤御前、法号宝樹院殿妙常日義大姉「大永3年(1523)4月13日卒となっている。当山の縁起によると、日純聖人が身延より江戸の地に転錫して、日夜大法宣伝につくし、当時その徳を慕って帰依する者も少なくなかった。たまたま、世田谷城主吉良頼康の愛妾常盤の前も、日純聖人の法雨に浴して信仰を堅くし、聖人に力をかしたので弦巻の地に御堂を建立するようになったといわれている。日純聖人は永正、大永の頃、当時の時勢を嘆いて宗旨に従い大義名分を明らかにしようとした。そのために「法華ぎらい」の頼康卿の怒りにふれた。頼康は部下に命じて常盤の前を捕えて斬ろうとした。常盤はこれを知り、ついに自刃して果てたと伝えられている。付近に、常盤橋の名が残るのは、この故事によるものとされている。しかし「新編武蔵風土記稿」には「当郡若林村香林寺ノ開基ハ香林寺殿海岸宝樹大姉ト云夫人ニテ天文四年七月七日没セリトイウ。カノ寺伝ニヨレバ香林寺殿ハ大平出羽守ノ女ニテ常盤ノ前トイヒシヨシナリ、然ルニ常在寺ノ開基宝樹院妙常日義ト云モ大平出羽守ガ女子ニテ常盤ノ前ガ法謚ナリトイフ。モシシカラバ香林寺ノ開基常盤ノ前ト卒年モ合ハザレノバ、イブカシキコトナリ。或ハ大平ガ家ヨリ吉良家へ嫁セシ夫人二人アリテ、トモニ常盤ト称セシニヤ。トカタ考フペキニヨシナシ」とあるし、確かたことはわかっていない。
現在の本堂は木造銅板茸平屋建74坪で約250年前の建物といわれている。鬼子母神堂は木造瓦茸平屋建で17坪、庫裡は2階建150坪ある。本尊は釈迦牟花仏。鬼子母神堂に安置してある鬼子母神は、常盤の前の守り本尊で、常盤が遭難の際に、追手の手に入るのを恐れて常在寺の井戸に投じてかくしたものを、後世、寺僧が井戸より揚げて安置したものとされ、寺の井戸水がやけどをした時に、よく効くといわれて所望者が遠方からもたずねたと、伝えられている。(せたがや社寺と史跡より)
常在寺の周辺図