高雲山瑞円寺|江戸幕府より寺領8石1斗の御朱印状
瑞円寺の概要
曹洞宗寺院の瑞円寺は、高雲山金剛院と号します。瑞円寺の創建年代等は不詳ながら庵室として創建、徳川秀忠(1632年逝去)より寺領8石1斗の御朱印状を拝領していたといいます。開山は天寳宗悦(延宝元年1673年寂)だといいます。
山号 | 高雲山 |
---|---|
院号 | 金剛院 |
寺号 | 瑞円寺 |
住所 | 渋谷区千駄ヶ谷2-35-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
瑞円寺の縁起
瑞円寺の創建年代等は不詳ながら庵室として創建、徳川秀忠(1632年逝去)より寺領8石1斗の御朱印状を拝領していたといいます。開山は天寳宗悦(延宝元年1673年寂)だといいます。
「渋谷区史」による瑞円寺の縁起
瑞圓寺(千駄ヶ谷二丁目三九八番地)
曹洞宗、高雲山金剛院という。相模国高座郡遠藤村寳泉寺末。千駄ヶ谷八幡の別当寺であつた。開山は天寳宗悦(延宝元年五月十七日寂)起立は詳でない。もとは庵室であつたという。高八石一斗の朱印地がある。
朱印状の写に、
武蔵國豊島郡千駄ヶ谷村瑞圓寺寺領同所之内八石壱斗事、任先規寄附之訖。全可収納。並寺中山林竹木諸役等免除、如有来、永不可有相違者也。
慶安二年十一月十七日 御朱印
と見えている。文中「任先規寄附之訖」とあるから、幕府が、寺領を寄附したのは、慶安以前であつたのが明らかである。寺の起立も、また同じく、それ以前に遡ることが出来る。恐くは江戸時代のはじめに、起立せられたのであろう。文政の書上に、「慶安二辰年十一月中、大猷院様此辺御成之節、当寺開山天宝に、御直ニ頂戴被仰付候由、申伝来候。起立之儀者、相知不申候」とあり、朱印の寄進を慶安二年に係けているのは、朱印状の日附から起つた伝説に過ぎない。
江戸時代には、境内三千五百三十四坪。本尊釋迦如来。塔頭江心院。鎮守稲荷社及び白山社などがあつた。江心院は寛文年間の起立、開山は円長和尚である。なお「東都歳時記」弁財天百社参の条に、三十番、千駄ヶ谷八幡瑞円寺と見えているから、弁天の社があつて、相当に参詣人のあつたことが知られる。その後、安政二年の大地震と翌年の風害とによつて、諸堂舎の破損するもの多く、更に維新の際、神仏分離の事あつて、ますます頽廃を極め、明治六年には、本堂を取縮めて、終に祖像と霊牌とを安置するだけの仮堂に改作するまでになつた。爾来荒れ果てたまま、歳を閲すること多年、明治四十二年に至り、漸く本堂の復興を見たのが今次事変まであつた建物である。(「渋谷区史」より)
瑞円寺の周辺図