柴山正春寺|土井昌勝の妻初台局
正春寺の概要
浄土真宗系単立寺院の正春寺は、柴山安養院と号します。正春寺は、土井昌勝の妻(德川家忠の乳母)初台局が、知行地に菩提寺の建立を願い、その娘梅園局(德川家光の乳母で、柴山九右衛門吉次、慶安4年没)の子正入が住していた天台宗湯島専西寺を当地に引寺する形で湯島山専西寺として元和6年(1620)創建、元和8年(1622)初台局(法名安養院)が歿し、寛永4年(1627)浄土真宗に改め、寛永10年(1633)湯島山安養院専西寺と改称、正保2年(1646)更に柴山専西寺と改めたといいます。慶安4年(1651)梅園局が歿し、明暦3年(1657)には正入が入寂、天和2年(1682)湯島専西寺が火災で焼失し、両寺合寺、元禄5年(1692)正春寺と改めたといいます。釋正入を開山、柴山九右衛門吉次の妻(法名正春院清安)を開基とするといいます。
山号 | 柴山 |
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院号 | 安養院 |
寺号 | 正春寺 |
住所 | 渋谷区代々木3-27-5 |
宗派 | 浄土真宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正春寺の縁起
正春寺は、土井昌勝の妻(德川家忠の乳母)初台局が、知行地に菩提寺の建立を願い、その娘梅園局(德川家光の乳母で、柴山九右衛門吉次、慶安4年没)の子正入が住していた天台宗湯島専西寺を当地に引寺する形で湯島山専西寺として元和6年(1620)創建、元和8年(1622)初台局(法名安養院)が歿し、寛永4年(1627)浄土真宗に改め、寛永10年(1633)湯島山安養院専西寺と改称、正保2年(1646)更に柴山専西寺と改めたといいます。慶安4年(1651)梅園局が歿し、明暦3年(1657)には正入が入寂、天和2年(1682)湯島専西寺が火災で焼失し、両寺合寺、元禄5年(1692)正春寺と改めたといいます。釋正入を開山、柴山九右衛門吉次の妻(法名正春院清安)を開基とするといいます。
新編武蔵風土記稿による正春寺の縁起
正春寺
浄土真宗京都東本願寺末柴山安養院と号す。本尊弥陀、開山釋正入、明暦3年4月9日化す。開基は柴山九右衛門吉次の妻にて、土井次郎左衛門昌勝の女なり。慶安4年9月12日死し、法名正春院清安と称す。此女名をゆふと呼ひ、台徳院殿に仕へ奉りしか、当村にて知行200石を賜はり、老後此地に菩提寺を建てんことを請て則夫の氏をもて山号となし、柴山正春寺と号す。かの知行の地は後年願上て其甥太田次郎左衛門康俊の子、太郎左衛門康重と云者に賜ひしか、其後知行替ありしといへり。康重か子孫今市左衛門と称し、旗下の士なり。(新編武蔵風土記稿より)
「渋谷区史」による正春寺の縁起
正春寺
真宗西。柴山安養院と号す。開基は徳川家光の乳母、梅園局。開山はその子僧正入である。正入ははじめ湯島三丁目伝西寺に住し、天台宗であつた。俗称の祖父を土井昌勝という。利勝の弟。妻は将軍秀忠の乳母となり初台局と称し、代々木村に於て知行二百石を賜う。養子吉次の時、姓を柴山と改む。妻は初台局の女。将軍家光の乳母となり、梅園局と称した。即ち正入の実母である。然るに初台局は、老後知行所に菩提寺建立の志があつた。新寺の建立は許されないので、その孫正入の住する湯島専西寺の引寺という事にして、元和六年に一寺を建立したが、湯島の寺もそのまゝ存在している。即ち専西寺が、湯島と代々木の二ヶ所に出来て、正入がこれを兼任した。同八年初台局が歿し、法名を安養院という。寛永四年改宗して真宗となる。同十年湯島山安養院専西寺と称し、正保二年更に柴山専西寺と改む。慶安四年梅園局が歿し、明暦三年には正入が寂した。元和二年湯島専西寺の火災にかゝるに及び、両寺はじめて合して、代々木専西寺ばかりとなり、元禄五年正春寺と改む。故に正入を開山とし、梅園局を開基としている。境内二千八百二十一坪。本尊阿彌陀如来。東本願寺末であつた。
田村成義の墓
江戸の人、明治十二円新富座の顧問となつてから後、千歳座(久松座の前身、後の明治座)歌舞伎座、市村座等の経営に當り、劇場の爲に尽くした。著書に続々歌舞伎年代記がある。大正九年十一月八日歿。年七十。寺の門内に銅像が建てられていた。(「渋谷区史」より)
正春寺の周辺図