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水稲荷神社|新宿区西早稲田の神社

水稲荷神社の概要

水稲荷神社は、新宿区西早稲田にある神社です。水稲荷神社の創建年代は不詳ながら、天慶四年(九四一)鎮守府将軍俵藤太秀郷朝臣が、はじめて旧社地(現境内地南方およそ三〇〇メートル)の富塚の上に稲荷大神を勧請したとも、また文亀元年(1501)に上杉治部少輔朝良が勧請したともいいます。天文19年(1550)には牛込主繕正時国が社殿を造営、江戸中期には当社の霊水が眼病治癒に効果あり、また火難除けにも効果があると信仰され、水稲荷と称されるようになったといいます。

水稲荷神社
水稲荷神社の概要
社号 水稲荷神社
祭神 倉稲魂大神
相殿 佐田彦大神・大宮姫大神
境内社 北野神社、浅間神社、高木神社、三島神社、水神社
住所 新宿区西早稲田3-5-43
祭日 -
備考 旧村社



水稲荷神社の由緒

水稲荷神社の創建年代は不詳ながら、天慶四年(九四一)鎮守府将軍俵藤太秀郷朝臣が、はじめて旧社地(現境内地南方およそ三〇〇メートル)の富塚の上に稲荷大神を勧請したとも、また文亀元年(1501)に上杉治部少輔朝良が勧請したともいいます。天文19年(1550)には牛込主繕正時国が社殿を造営、江戸中期には当社の霊水が眼病治癒に効果あり、また火難除けにも効果があると信仰され、水稲荷と称されるようになったといいます。

東京都神社名鑑による水稲荷神社の由緒

天慶四年(九四一)鎮守府将軍俵藤太秀郷朝臣が、はじめて旧社地(現境内地南方およそ三〇〇メートル)の富塚の上に稲荷大神を勧請された。はじめ富塚稲荷または将軍稲荷と呼ばれた。文亀元年(一五〇一)川越管領上杉治部少輔朝良朝臣が、夢に一老翁を見た。老翁は「我此所を守護し民をして太平の化を蒙らしめ所を繁栄ならしめんとす汝必ず民を虐ぐる事勿れ」といわれたので、朝臣が「翁は如何なる人にましますぞ」と問えば「天の戸を開きて江戸に稲荷なる富塚の里にいくよへにけり」と答えて夢がさめた。時に庭前に一老狐がおり、朝臣を顧みて江戸の方に飛び去った。朝臣はただちに家臣をして江戸、戸塚のあたりを探させたところ戸塚音信山に稲荷の古社があり、その傍の古塚に白狐が年久しく住んでいることがわかった。朝臣はただちに社殿を造営し、戸塚一円を社領にした。天文十九年(一五五〇)牛込主繕正時国が社殿を造営した。天和二年(一六八二)佐藤駿河守信次が社殿を造営した。元禄十五年(一七〇二)四月神主の夢想により、大椋の下に霊水が湧出、時に江戸市中眼病を患うもの多く、諸人困難したが、この霊水によって治った者がたくさんあった。またその節の御神託に「我を信仰する者には火難をまぬかれむべし」とあり、このことから世に水稲荷と称し奉れ、消防関係者、水商売の人たちは特に参詣した。当時は信仰範囲甚だ広く、現に伊勢国飯高郡の人の納めた石燈寵が残っている。天明八年(一七八八)京都大火皇居炎上のさい、しきりに防火につとめる老翁があり、遂に天眼に留り名を問われた時「江戸の水稲荷」と奉答して姿を消した。この時の恩賞に関東稲荷惣領職を賜わったと伝えている。(東京都神社名鑑より)

新編武蔵風土記稿による水稲荷神社の由緒

(下戸塚村宝泉寺項)稲荷社。
水稲荷と号す。当寺舊記の寫なりと云ものあり。其内に文亀元年再興大檀那上杉治部少輔入道朝良云々とあり。又「上杉系図」異本に治部少輔朝良、文亀元辛酉年、依霊夢江北高田郷戸塚村稲荷大明神勧請、今寶泉寺境内戸塚稲荷是也とあり。寺傳と違へり。又当社の棟札なりとて是も其寫を蔵せり。其文に天文十九年庚戊二月二十九日、北条氏綱之時代牛込主膳時国再興、大僧都別当寶泉坊秀寶云々とあり氏綱は天文十年の卒なり。年代も違ひ且「牛込系図」時国なし。後天和二年佐藤勘右衛門信次再ひ造営すと云。真次子孫美濃守信頸也。神体は朝良夢中感得の像を彫刻する所と云。長一尺五寸本地十一面観音長二尺五寸慈覚大師の作、及陀枳尼天の像を合殿とす。
浅間社。高さ三丈余の仮山上にあり。安永八年の勧請にて山は奇石を畳みて築立巧を極めたり。毎歳六月十五日より十八日まで登山をゆるし参詣の人にきはへり。里人高田富士と云へり。(新編武蔵風土記稿より)


水稲荷神社所蔵の文化財

  • 堀部武庸加功遺跡之碑

堀部武庸加功遺跡之碑

この記念碑は、「忠臣蔵」における代表的説話であり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘」(元禄七年)における赤穂浪士・堀部安兵衛(一六七〇~一七〇三)の事績を顕彰する記念碑である。江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が、明治四十三年(一九一〇)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東作、鐫は堀部忠蔵の手になる。また、賛助者には頭山満・犬養毅・大隈重信・三田村鳶魚など当時の名士が名を連ねている。当初は茶屋町通りにある久蔵の植木園に建てられたが、昭和四十六年(一九七一)に現在地に移された。総高は約三五〇cmである。
この記念碑が建てられた当時は、日露戦争後の国家主義の高揚を背景とし、「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけては全国的に建碑ブームが巻き起こり、歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。(新宿区教育委員会掲示より)

水稲荷神社の周辺図