分應山常敬寺|宇田天皇二男明頂法師が創建
常敬寺の概要
真宗大谷派寺院の常敬寺は、分應山と号します。常敬寺は、明頂法師(宇田天皇二男、従五位下左衛門佐俊昌)が三河国吉良庄家氏村に別昌院を建立、親鸞上人の教化により浄土真宗に改めて法城山浄見寺と改号したといいます。その後慶長15年(1610)江戸に上京、元和3年(1617)八丁堀に常教寺を建立、明暦2年(1656)当地に移転したといいます。
山号 | 分應山 |
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院号 | - |
寺号 | 常敬寺 |
住所 | 新宿区市ヶ谷山伏町1-7 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
常敬寺の縁起
常敬寺は、明頂法師(宇田天皇二男、従五位下左衛門佐俊昌)が三河国吉良庄家氏村に別昌院を建立、親鸞上人の教化により浄土真宗に改めて法城山浄見寺と改号したといいます。その後慶長15年(1610)江戸に上京、元和3年(1617)八丁堀に常教寺を建立、明暦2年(1656)当地に移転したといいます。
「牛込區史」による常敬寺の縁起
分應山常敬寺、東本願寺末
元和元年八町堀寺町に起立、寛永十二年佐渡殿原に移轉、同十四年牛込寺町横町に移轉、明暦二年山伏町に移つた。開祖明順法印。(「牛込區史」より)
東京名所図会による常敬寺の縁起
常教寺
常教寺は市谷山伏町にあり、分應山と號す、真宗大谷派にして、開山を教明といへり。寺門大通りに面す、墓地は其七番地にあり。
新編江戸志(九)に云、寺傳にいふ、開基明頂法師は、生國三州にて、宇田天皇の二男、従五位下左衛門佐俊昌、出家して俊明と號す、顯真僧正の弟子となりて、三州幡豆郡吉良庄家氏村別昌院と號す、其後天福元年癸巳親鸞聖人に謁して弟子と成、浄土真宗に改めて法城山浄見寺といへり、俊明より九代孫教明、慶長十五年江戸へ下り一宇建立の願ひを發す、元和三年免許を蒙り、八丁堀寺町にて即常教寺を建立せり、其後御用になりて所々に寺跡を移す、遂に明暦二年牛込山伏町にて寺地拝領す、本尊阿弥陀如来、三州より開基明頂供奉せり、本願寺八代蓮如上人彫刻の佛像なり、委くは縁起にあり。(東京名所図会より)
常敬寺の周辺図