妙典山戒行寺|新宿区須賀町にある日蓮宗寺院
戒行寺の概要
日蓮宗寺院の戒行寺は、妙典山と号します。戒行寺は、玉泉院日養が麹町に戒行庵として文禄4年(1595)創建、隣家の宮重作兵衛重次(妙典院殿蓮經日珠居士、正保3年1646年歿)の助力により、一寺となし戒行寺となったといいます。江戸城外堀建造に伴い、寛永11年(1634)当地へ移転、江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していたといいます。
山号 | 妙典山 |
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院号 | - |
寺号 | 戒行寺 |
住所 | 新宿区須賀町9-3 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
戒行寺の縁起
戒行寺は、玉泉院日養が麹町に戒行庵として文禄4年(1595)創建、隣家の宮重作兵衛重次(妙典院殿蓮經日珠居士、正保3年1646年歿)の助力により、一寺となし戒行寺となったといいます。江戸城外堀建造に伴い、寛永11年(1634)当地へ移転、江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していたといいます。
「四谷區史」による戒行寺の縁起
妙典山戒行寺と稱して四谷寺町にある身延山久遠寺末の日蓮宗で、所在地南寺町は今も舊名の儘である。境内拝領地は三千七百拾坪、外に裏門通りに百廿坪の年貢地を所有してゐた。文禄四年丁未麹町八町目谷に起立し、寛永十一年甲戌此地に移轉した。開山は玉泉院日養と云つて慶長十七年壬子正月七日に遷化した。開基は旗本の士宮重作兵衛重次、これは正保三年丙戌七月廿日に歿したが、妙典院殿蓮經日珠居士の法名をやがて山號としたのである。久遠寺江戸惣末寺中の五箇寺の一と呼ばれた。子院に圓立院本壽院觀行院覺行院があつたが、覺行院は最も早く廢したといふ。門前地は三拾坪あつたが、許可の年代は不明である。(「四谷區史」より)
四谷南寺町界隈による戒行寺の縁起
妙典山と号し、身延山久遠寺の末。
文禄4年(1595)起立で開山日養上人。
「再校江戸砂子」に記すところによれば、当寺寛永のころまでは戒行庵とて麹町一丁目(書上には八丁目)御掘端にあって、常題目修行の小庵なりしが、一寺に建立せん事を願う。隣家に大御番宮重作兵衛重次(正保3年7月20日歿)の居住ありしに、志願を語りければ、宮重氏まづ檀那となりて力を合せ終に一寺となれり。当所へ移されしは明暦の頃という。ゆえに宮重氏の開基である。
明暦に移転せしというのは誤りなりと「東京案内」には、
南寺町にあり。文禄4年僧玉泉院日養(日養は慶長17年1月7日寂)麹町八丁目に創建し寛永11年(1634)此地に移す。昔時境内3,700坪を有し、寺門大いに繁昌なりしという。分身鬼子母神あり。定朝の作という。
とあり、「御府内備考」巻之64、四谷の条に、
当門前町屋起立の儀は、寛永11甲戌年当所へ替地相成、境内惣坪数3710坪の内30坪、門前町屋に相成申候。元地以来町屋有之候哉。引地以後の義に候哉、享保10巳年2月類焼、相願済並町御奉行御支配相成候年月共書き物焼失仕り相知れ不申候。尤永代門前前地に御座候。
とあって、寛永11年説が確証出来る。しかるに「江戸名所図会」も、明暦説を説いている。
当寺の日貞師は、山本勘助晴幸(はるゆき)入道道鬼斎が孫にて、延山日悦承認の徒弟也(割注:寛保中八十余歳にして遷化せらる)。当寺は明暦に至り此地に遷さる、総門の額に妙典山と書せしは、朝鮮国李彦の書也。此所の坂を戒行寺坂、又其下の谷を戒行寺谷と唱へたり。
戦後すっかり新築なっているが明治頃の規模は大体江戸時代のままのように思われる。「東京名所図会」に記す処では、
山門「妙典山」三字の扁額は、朝鮮国李彦祐(りげんゆう)の書たり、門内甃石一条、寸埃を止めず、本堂は東南に面す、七間四面の蘭若(らんにゃ)向拝、勾欄付、紅梁の端に象及び獅子頭を彫り、懸魚に飛竜を躍らす、玄関は折廻はして西南に面す、式台附なり、隣りて内玄関あり。
本尊 十界曼荼羅 木像十八体
本堂 間口七間奥行七間並内陣三間四面
庫裡 間口八間奥行五間
表門 間口一丈奥行六尺並門番所九尺二間
官有地 911坪8合5勺
共有墓地 952坪4合2勺
是、現在(明治36年)の実況なり。
(中略)
往時は塔頭に、円立院、本寿院、観行院、覚行院があったが、覚行院は江戸時代既に廃され、他の寺院も維新頃本寺へ合併されたかなくなってしまった。(四谷南寺町界隈より)
戒行寺の周辺図