金鶏山真成院|御府内八十八ヶ所、江戸三十三観音、関東九十一薬師
真成院の概要
新義真言宗の真成院は、金鶏山と号します。真成院は、清心法印(正保4年1647年寂)が開山となり慶長3年(1598)に創建、江戸城外濠建造のため当地に移転したといいます。当寺の観音像は、鹽踏観音は一に汐干観音とも称され、村上天皇の守護仏だったともいいます。御府内八十八ヶ所霊場39番、江戸三十三観音18番観音、関東九十一薬師霊場13番です。
山号 | 金鶏山 |
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院号 | 真成院 |
寺号 | - |
住所 | 新宿区若葉2-7-8 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 大日如来像 |
葬儀・墓地 | 室内霊園四谷霊廟 |
備考 | 御府内八十八ヶ所霊場39番、江戸三十三観音18番観音、関東九十一薬師霊場13番 |
真成院の縁起
当寺院は、清心法印(正保4年1647年寂)が開山となり慶長3年(1598)に創建、江戸城外濠建造のため当地に移転したといいます。当寺の観音像は、鹽踏観音は一に汐干観音とも称され、村上天皇の守護仏だったともいいます。
「四谷區史」による真成院の縁起
錦敬山海繁寺眞成院は四谷南寺町今の寺町にある新義眞言宗で、中野村寶仙寺の末寺である。境内拝領地は三百五十一坪、起立及び替地等の年代は詳でないが、開山清心は正保四年丁亥五月六日に入寂してゐるから時代は略推察される。
此寺は府内八十八箇所卅九番の札所で、鹽踏観音は一に汐干観音とも稱して、村上天皇の守護佛と傳へてゐる。又歓喜天があつて十六日を縁日とし、参詣者が多い。外に吉祥水がある。武江披砂に武州四谷潮干観音之説を載せて、「武州江戸四谷錦敬山海繁寺眞成院の本尊観音也、潮干の観音といふ、其近邊の地を潮干といふ、亦潮ふみの観音共いふ、共に分明ならずといふ、古代は足の下より潮出たりともいふ。按ずるに、いにしへは潮踏の観音といふなり、越後村上氏代々の守佛なり、村上義清の守本尊なり、一尺計の石の上に坐像の聖観音なり、此石潮のさし引に濕り乾くの變あり、村上信濃守成清イに賴清は上総國久留里の城主なり、北條氏康の爲めに落城に及ぶ、成清自殺の期に其子二人あり、五歳と三歳の男子なり、是をも刺殺さむとす、折ふし城に信濃國の僧清心法印来りて曰、大将の跡絶へからすといひで、其二子を衣にかゝへ、城を出て寺に歸り育けり、後に兄をば村上左衛門信清といひ、弟をば勝長門守といふ、長門守は里見義弘の家臣となり、老職となる、兄村上左衛門は未だ浪人たりしに、三州より里見へ被仰談度事有しに、未だ其便を求させ給はず、村上左衛門は勝長門守が兄なるよしに付き、鈞命を蒙りて義弘へ使す、此時村上左衛門召出されしとぞ、先年落城の頃にや有らん、彼守本尊を彼僧携へて其寺にをく、一説に村上義清末流村上兵部入道楽斎は奥州米澤に在りしが、大坂御陣に立、其後江戸に歸る、當寺開山清心法印は祈の師たるにより、浪人の内當智に寓す、後水戸の御家に出勤す、其頃此本尊は當寺に納むともいふ、此観音の石座潮汐干満にしたがひ、乾濕の變有、此僧後に武州に来り、四ツ谷今の地に居す、此の佛をも安置す、此石に潮時のしるしを以て、諸人奇として尊み稱して潮踏の観音と名づく、後にはへて汐干の観音といふは、潮の満干の観音といふの略語なるべし、其の近邊の名をしほひといふ、享保十年巳二月の火災に、其石座は焼失したりとなむ」と見える。(「四谷區史」より)
真成院の周辺図