応供山等正寺|江戸湯島創建、昭和16年当地へ移転
等正寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の等正寺は、応供山と号します。等正寺は、不退院玄証が江戸湯島に元和8年(1622)創建、元禄17年湯島内を移転したといいます。関東大震災で罹災、区画整理に伴い、昭和4年井荻へ移転、昭和16年当地へ移転したといいます。
山号 | 応供山 |
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院号 | - |
寺号 | 等正寺 |
住所 | 杉並区本天沼3-41-7 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
等正寺の縁起
等正寺は、不退院玄証が江戸湯島に元和8年(1622)創建、元禄17年湯島内を移転したといいます。関東大震災で罹災、区画整理に伴い、昭和4年井荻へ移転、昭和16年当地へ移転したといいます。
杉並区教育委員会掲示による等正寺の縁起
当寺は応供山と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は江戸時代初期の作といわれる阿弥陀如来立像です。
「御府内備考続編」および寺伝によれば、元和八年(1622)江戸湯島(現文京区本郷一丁目)に開創されました。開山は不退院玄証で、玄証は足利義満の家臣であった浅野民部大輔永慶の九代の末裔と伝えられています。
元禄十六年(1703)類焼にあい、ついで翌十七年二月には寺地が御用地となったため、同年三月同所興安寺の隣(現文京区本郷二丁目)に寺地を拝領して移転しました。
当寺は創建当初は東本願寺に属しましたが、宝暦九年(1759)八世敬胆律師の代に西本願寺に帰山しました。現在の本尊はこの時に本山から下附されたものです。天保十年(1839)の再度の火災で、それまでの記録類や宝物などの大半を失いました。
大正十二年関東大震災で罹災、その後本郷地区の区画整理のため、昭和四年井荻町中瀬(現清水3-1)に移り、同十六年四月に至って現在の地に再移転しました。現在の本堂は昭和四十六年に建立したものです。
なお、墓地には狂歌師三陀羅法師(文化十一年1814没)、三代目都々逸坊扇歌(明治十三年没)の墓碑があります。(杉並区教育委員会掲示より)
東京名所図会による等正寺の縁起
等正寺
同(本郷元町)十九番地にあり、應供山と號す、又本派本願寺末、開山玄澄、元和八年起立、春日作阿弥陀如来を安置す。(東京名所図会より)
等正寺所蔵の文化財
- 狂歌師三陀羅法師(文化十一年1814没)の墓碑
- 三代目都々逸坊扇歌(明治十三年没)の墓碑
等正寺の周辺図