村高山栖岸院|安藤重長が中興開基、大正9年に当地へ移転
栖岸院の概要
浄土宗寺院の栖岸院は、村高山と号します。栖岸院はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で、天正19年(1591)麹町八丁目に寺領を拝領して江戸に移り、寛永16年(1639)に安藤重信の子重長が中興開基となって、父重信を開基、妙誉秀慧を開山に招聘、浄土宗の寺として改めて開創、大正9年に当地へ移転しました。
山号 | 村高山 |
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院号 | 栖岸院 |
寺号 | - |
住所 | 杉並区永福1-6-12 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
栖岸院の縁起
栖岸院はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で、天正19年(1591)麹町八丁目に寺領を拝領して江戸に移り、寛永16年(1639)に安藤重信の子重長が中興開基となって、父重信を開基、妙誉秀慧を開山に招聘、浄土宗の寺として改めて開創、大正9年に当地へ移転しました。
杉並区教育委員会掲示による栖岸院の縁起
当寺は村高山と号する浄土宗の寺で、本寺は京都の知恩院です。寺伝によれば当寺はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で、天正19年(1591)麹町八丁目に寺領を拝領して江戸に移りました。元和7年(1621)老中安藤重信が葬られ、以来同家の菩提寺となり、寛永16年(1639)には重信の子重長が中興開基となって、父を開基、妙誉秀慧を開山に招聘、浄土宗の寺として改めて開創されたといわれます。現寺名の栖岸院も、この時から用いられたと考えられます。
江戸時代の当寺は、住職が将軍に単独で拝謁のできる”独礼の寺格”を許され、安藤家・高木家(丹南藩主)をはじめ多くの旗本諸家の香華寺として市中に知られていました。当時の寺の様子を「江戸名所図会」(天保初年刊)は「当寺に頼朝の念持仏と称する聖観音の霊像を安置す。含前に安置する所の観音の像は楠正成尊信の霊像なりといふ。)7月10日は千日参と唱えて参詣願る多し」と記しています。
明治維新後は武家の凋落、市街の変化などの影響をうけざるとえず、寺院の発展を図る為、大正9年現在地に移転しました。
観音堂に安置する聖観世音菩薩は、「火伏観音」と呼ばれる鎌倉時代後期の端正な仏像で、区の指定文化財となっています。(杉並区教育委員会掲示より)
江戸名所図会による栖岸院の縁起
村高山栖岸院
麹町八丁目の右側にあり浄土宗にして洛の知恩院に属せり。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作開山は妙誉真入上人と号候。開基は安藤対馬守重信なり、昔は長福寺と号し三州にありしとぞ。當寺は頼朝の念持佛と称する聖観音此霊像を安置す。龕前に安置する所の観音の像ハ楠正成尊信の霊像なりといふ。七月十八日千日祭と唱へて参詣頗る多し(江戸名所図会より)
栖岸院所蔵の文化財
- 木造聖観音菩薩坐像(杉並区指定有形文化財)
木造聖観音菩薩坐像
村高山栖岸院
本像は、像高四七cmの小像ですが、眼鼻立ちの整った、たいへん気品のある仏像で、宝冠、胸飾り(瓔珞)をつけた菩薩形をとり禅定印を結んでいます。衲衣は両袖が膝の横から垂下しており、ここに、この仏像の特徴が見られます。これは宋朝の仏像彫刻の影響をうけたもので、鎌倉時代後半の特徴を残すものでです。像容は、宝冠釈迦如来坐像と呼ぶのが、ふさわしいかもしれませんが、宋文化を取り入れた当時は、根強い観音信仰があり、聖観音として造立されたものと思われます。(杉並区教育委員会掲示より)
栖岸院の周辺図
参考資料
- 江戸名所図会