東運寺|杉並区方南にある浄土宗寺院

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念仏山東運寺|安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」、田村右京太夫江戸屋敷の脇門

東運寺の概要

浄土宗寺院の東運寺は、念仏山と号します。東運寺は、天正元年(1573)備前の僧一安上人が、奉じていた安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を安置して当地に念仏堂としてはじまりました。大正11年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安4年1651年茂山上人開山)と合併し、念仏山東運寺と改称しました。当寺には、釜ゆでにされそうになった厨子王をお坊さんになって助けたという身代わり地蔵尊、浅野内匠頭が通ったと伝えられる田村右京太夫江戸屋敷の脇門があります。

東運寺
東運寺の概要
山号 念仏山
院号 -
寺号 東運寺
住所 杉並区方南2-5-4
本尊 木造阿弥陀如来坐像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



東運寺の縁起

東運寺は、天正元年(1573)備前の僧一安上人が、奉じていた安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を安置して当地に念仏堂としてはじまりました。大正11年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安4年1651年茂山上人開山)と合併し、念仏山東運寺と改称しました。

杉並区教育委員会掲示による東運寺の縁起

「釜寺」の通称で親しまれている念仏山東運寺は、阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺で、「釜寺」という通称の由来となった「身代わり地蔵尊」も安置されています。
戦国のころ、天正元年(1573)備前の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが、当寺の開創と、元禄14年(1701)もと住職であった祐梵上人筆の由緒書は伝えています。
この「身代わり地蔵尊」は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれます。現在の大釜は、昭和20年の戦災で本堂焼失後、当地の信者が寄進したもので、米一俵を炊くことができるといいます。
文化財としては、元禄2年(1689)の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔・石仏などが保存されています。また、山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)であったのが、そのゆかりの人々の冥福を祈って寄進保存されたものです。そのほか、中国山東省の孔子家より頂いた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しいです。
なお、大正11年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安4年1651年茂山上人開山)と合併し、改めて念仏山東運寺となりました。(杉並区教育委員会掲示より)

「杉並の寺院」による東運寺の縁起

本堂屋根に大釜をのせ、釜寺と呼ばれる当寺の由来は、開山一安が安寿と厨子王の守り本尊といわれる「身代り地蔵」をもって当地に来たり、大地主鈴木伊兵衛がこれに帰依して念仏堂を建立し、厨子王を釜ゆでから救ったという地蔵の伝説に因んで屋根に釜を置いたと伝える。寺伝では、その時期を天正元年(1573)とするが、「新編武蔵」和田村念仏堂の項は、正保元年(1644)開創、開山一安の寂年月日を天和2年(1682)7月15日としている。
大正11年(1921)、中興開山桂巌が入谷の東運寺を合併して念仏山東運寺と山号を改め、堂宇を新築したが、昭和20年戦災で焼失したため、現在の屋根の釜は新たに檀徒の寄進したものである。(「杉並の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による東運寺の縁起

東運寺
同末(浄土宗浅草幡随意院末)、道見山長盛院と号す。開山茂銭、慶安4年起立し、延宝2年10月15日寂す。本尊弥陀及鉦冠薬師を安す。弘法大師の作長3寸の坐像なり。相傳ふ此像は正西と云僧の念持佛なり。明暦回祿の時臥鉦と共に塗籠に収め置しに、塗籠災に罹り鉦は沸解しかど、此像は小しも損せず、正西愈渇仰して鉦冠薬師と号し、死期に及で当寺に寄附すと云。(新編武蔵風土記稿より)


東運寺所蔵の文化財

  • 元禄2年(1689)銘半鐘(杉並区指定文化財)
  • 寛文8年(1668)銘石造青面金剛立像
  • 明和3年(1766)銘石造阿弥陀塔
  • 石造聖観音菩薩立像
  • 山門(元芝田村右京太夫江戸屋敷脇門)

元禄2年(1689)銘半鐘

当半鐘は口径33cm、高さ58cmで良く整った形をしています。龍頭は双頭を背合わせにし、その上に蓮華座をもつ宝珠を置き、笠形は饅頭形で甲盛りが高く、池の間には「元禄2年」(1689)、「中興開山定蓮社正誉幡可和尚」の時に「方南村」の当寺に寄進された旨が鮮明に刻されています。 鋳造者は湯島霊雲寺の梵鐘で有名な江戸の鋳物師田中丹波守重行です。本鐘は区内に所在する梵鐘のなかで最も古い年記を持つもので、銘文により東雲寺の古歴を示す貴重な資料です。(杉並区教育委員会掲示より)

山門縁起

この山門は元禄の頃、芝田村屋敷の脇門にして、浅野内匠頭是を通ると伝う。
明治末葉、三井総本家これを今井町に移し、元織田有楽斎如庵の茶室(国宝)の表門となせるも、用うること稀なりしが為め「開けずの門」と称すと。
戦中解体保管しあるを、適々昭和28年同家御当主元男爵三井高公(襲名八郎右衛門)殿より当山中興精誉桂巌上人に寄進せらる。
因に当山門は、屋根瓦は、当初田村公の時、明治末三井家の時、当山に再建の時の三種あり、釘は全く用いず組合せ式、門自体約五分内側へ傾けてある由、門扉開閉確実の為めとは、古昔の工匠修錬実績の智慧に無限の敬意を表せんものを。
茲に 昭和30年7月7日落慶法会を修す。住職勧誉興道代(境内掲示より)

東運寺の周辺図