正住山福相寺|上野下谷に創建、昭和12年当地へ移転
福相寺の概要
日蓮宗寺院の福相寺は、正住山と号します。福相寺は、天正17年(1589)身延山久遠寺20世一如院日重が上野下谷に創建、その後小石川白山前に移転したといいます。昭和12年当地へ移転しています。
山号 | 正住山 |
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院号 | - |
寺号 | 福相寺 |
住所 | 杉並区堀ノ内3-48-58 |
本尊 | 十界諸尊・木造日蓮上人坐像 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
福相寺の縁起
福相寺は、天正17年(1589)身延山久遠寺20世一如院日重が上野下谷に創建、その後小石川白山前に移転したといいます。昭和12年当地へ移転しています。
杉並区教育委員会掲示による福相寺の縁起
当寺は、正住山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊と日蓮上人坐像です。
「江戸紀聞」「改撰江戸志」などによると、当寺は、天正17年(1589)一如院日重(身延山久遠寺20世)により下谷に開創され、寛永年間(1624-1643)寺地が上野寛永寺の境内地となったため、小石川白山前に移転したとされています。
また、一説によると、寛永5年(1628)正住院日協により谷中三崎に開創され、元禄16年(1703)火災に遭い焼失したため、その後、小石川白山前に移転したと伝えられています。
当寺には、病気平癒に御利益があり、また福を授けてくれるという「願満大黒天」が安置されています。その由来は、当寺16世日元が大阪に立ち寄った際、長病の某氏のために同家に安置されていた伝教大師の作といわれる大黒天を清めお祈りしたところ、全快し、これが縁でこの像は日元に託され、当寺鎮護の善神として境内鎮護大黒堂に安置されたということです。江戸後期には、その「来縁の記」を刷物にして参詣者に配ったほど庶民の信仰を集め、また、遠く関西方面からも参詣者があり、その人々が奉納した石塔が今も境内に残っています。
現在地には昭和12年に移転してきました。
墓地には、俳人・長谷川零余子(昭和3年没)・かな女(昭和44年没)夫妻の句碑と墓があり、また、初代杉並区長・魚井重太郎の墓もあります。(杉並区教育委員会掲示より)
東京名所図会による福相寺の縁起
福相寺
大乗寺の南隣。白山公園北の崖下。六十九番地にあり。正住山と號す。日蓮宗。身延末。寺門素木造。扉に井桁の紋章あり。本堂北に面す。堂前に。石造鼠(俵をふまへたる)一對を置く。堂後に小池あり。(東京名所図会より)
福相寺所蔵の文化財
- 福相寺木造大黒天像及び大黒天信仰関係等版木並びに石造物(杉並区指定文化財)
福相寺木造大黒天像及び大黒天信仰関係等版木並びに石造物
本大黒天像は、江戸時代には「願満大黒天」と呼ばれ、その由来記を版行して参詣者に配るほど信仰を集めた。その由来記の他、駒込(現文京区白山)慈愛の福相寺の境内を描いた多色刷りの団扇絵、護符などの版木も残っている。また、鼠の彫像は、石造物としては国内でも古例に属するものとして重要な例品である。大黒天像、版木、石造物は大黒天信仰の隆盛を示すものとして貴重であり、これらが一括して伝えられていることで、互いの意義を強調しており、これらの価値は極めて大きい。(杉並区教育委員会掲示よより)
福相寺の周辺図