如説山修行寺|もと本土寺貫首の江戸宿寺、大正元年移転
修行寺の概要
日蓮宗寺院の修行寺は、如説山と号します。修行寺は、寛永3年(1626)、下総国葛飾郡平賀村(現千葉県松戸市)の本山本土寺の末寺として、修行院日城上人が麹町に開創、寛永11年(1634)に赤坂一ツ木へ移転、明暦の大火(1657)後、市ヶ谷谷町(現新宿区富久町)へ移転したといいます。江戸期には本土寺貫首の江戸滞在時の常宿院(住居所)となっていました。大正元年(1912)当地に移転しています。
山号 | 如説山 |
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院号 | - |
寺号 | 修行寺 |
住所 | 杉並区堀ノ内3-43-27 |
本尊 | 一塔両尊像 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
修行寺の縁起
修行寺は、寛永3年(1626)、下総国葛飾郡平賀村(現千葉県松戸市)の本山本土寺の末寺として、修行院日城上人が麹町に開創、寛永11年(1634)に赤坂一ツ木へ移転、明暦の大火(1657)後、市ヶ谷谷町(現新宿区富久町)へ移転したといいます。江戸期には本土寺貫首の江戸滞在時の常宿院(住居所)となっていました。大正元年(1912)当地に移転しています。
杉並区教育委員会掲示による修行寺の縁起
当寺は、如説山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊像です。
「文政寺社書上」によると、寛永3年(1626)、下総国葛飾郡平賀村(現千葉県松戸市)の本山本土寺の末寺として、修行院日城上人により麹町に開創されました。その後、江戸市街の整理のため寛永11年(1634)に赤坂一ツ木へ移転し、さらに明暦の大火(1657)の後、幕府の防火対策のため万冶元年(1658)に1500坪の拝領地をもって市ヶ谷谷町(現新宿区富久町)へ移転しました。
貞享元年(1684)、本土寺21世貫首日信上人は、本土寺貫首の江戸滞在時の常宿院(住居所)を修行寺に定め、明治初期まで院代(住職代理)を置いて日常の法務をさせていました。また本土寺貫首の多くは貫首を引退すると修行寺山内智光庵に隠棲し、本土寺貫首の墓塔は修行寺にも残されました(如説山修行寺略史)。
元禄8年(1695)、広瀬藩(出雲国松江藩支藩)の藩主松平近栄の室、満姫が本土寺に奉納した七面大明神の木坐像が修行寺本堂に安置され、享保16年(1731)には、松平家からの寄付もあって七面堂が完成しました。江戸の町名主がまとめた「東都歳時記」には「七面参」の寺院の一つとして記されています。また文化9年(1812)、法華信者であった尾張藩附家老の成瀬正典が生前墓を建立し、一族の墓も十数基建てられました。
現在地には、都市計画を進める東京市が明治36年(1903)に市内寺院へ示した方針もあって、大正元年(1912)に移転しました。昭和20年(1945)5月25日に空襲を受け、堂宇など建物すべてが焼失しましたが、のちに再建されました。
墓地には、能楽シテ方金春流の別家金春八左衛門十世安冶の墓などがあります。(杉並区教育委員会掲示より)
「杉並の寺院」による修行寺の縁起
市ヶ谷時代の当寺は、広瀬藩松平家、犬山城主成瀬家の菩提寺、七面大明神として繁栄した。(「杉並の寺院」より)
「牛込區史」による修行寺の縁起
(谷町)加説山修行寺 下総國平賀本土寺末
寛永三年麹町に起立、同十一年赤坂へ移り、萬治元年谷町に轉じた。開山修行院日城、慶安四年二月十三日遷化、舊境内拝領地千五百二十坪五勺。(「牛込區史」より)
修行寺の周辺図