安楽山本佛寺|昭和17年当地へ移転、江戸三大鬼子母神
本佛寺の概要
日蓮宗寺院の本佛寺は、安楽山と号します。本佛寺は、修行院日通(延宝8年1680年寂)が開山となり、寛永8年(1631)谷中三崎町に創建、元禄2年火事により焼失したため元禄3年(1690)本所出村へ移転したといいます。昭和17年当地へ移転しました。江戸時代には、中山法華経寺・雑司ヶ谷鬼子母神堂と並んで江戸三大鬼子母神の一つといわれ多くの崇敬を集めました。
山号 | 安楽山 |
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院号 | - |
寺号 | 本佛寺 |
住所 | 杉並区梅里1-1-12 |
本尊 | 十界諸尊、木造日蓮上人像 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本佛寺の縁起
本佛寺は、修行院日通(延宝8年1680年寂)が開山となり、寛永8年(1631)谷中三崎町に創建、元禄2年火事により焼失したため元禄3年(1690)本所出村へ移転したといいます。昭和17年当地へ移転しました。
「杉並の寺院」による本佛寺の縁起
本佛寺は、江戸時代以来、「子授開運鬼子母神のお寺」として庶民に親しまれており、当寺の鬼子母神像は、中山法華経寺・雑司ヶ谷鬼子母神堂と並んで江戸三大鬼子母神の一つといわれ、本所時代には、雑司ヶ谷と入谷の鬼子母神と共に崇められた。
「子授開運鬼子母神」と称される当寺の鬼子母神像は、「水中出現の子授、子育鬼子母神」ともいわれ、黒色の木彫で、高さ5cm、左手懐中に赤子を抱き、右手には吉祥果を持つ痕跡が見られる。(「杉並の寺院」より)
新編武蔵風土記稿による本佛寺の縁起
甲斐国久遠寺末 本所出村
安楽山本佛寺、境内拝領地1250坪
寛永八辛未年谷中三崎に起立仕、元禄二未己年焼失ニ付元地被召上、同三庚午年正月廿九日当所において代地拝領仕候。
開山修行院日通延宝八庚申年十二月廿八日寂。
本堂。内陣梁間三間奥行九尺。拝殿、梁間七間奥行五間半。
本尊宗法之通諸尊安置。
釈迦佛、立像丈一尺。
納経塔一基、高二尺九寸。
釈迦多宝、坐像丈二寸五分。
半鐘、差渡一尺二寸丈一尺八寸。
太鼓、差渡一尺七寸五分丈二尺一寸。
安楽山之額字。竪二尺五寸、横六尺四寸。
鬼子母神堂。内陣梁間三間奥行四間。拝殿梁間四間奥行五間。
子授鬼子母神、木立像丈二寸余。(新編武蔵風土記稿より)
「東京名所図会」による本佛寺の縁起
本佛寺は。同町(太平町)一丁目二十四番地に在り。安楽山と號す。日蓮宗にして。甲斐國身延山久遠寺の末なり。
日通上人寛永八年を以て開基す。初め谷中三崎に在りしが。元禄年間に至りて。此地に移れりといふ。
寺内に鬼子母神堂あり。子授鬼子母神の木像を安置す。其の縁起は下に掲ぐ。屋根は銅葺にて。堂の正面に龍の彫あり。
傍に地蔵堂(鰐口に天保九年三月十五日とあり)北辰妙見宮あり。
本堂は南向きにて。法雨園の扁額を掲ぐ。延嶽主人日鑑と署せり。
堂前に日鑑上人の壽碣あり。信夫恕軒の撰文にて大沼枕山翁の書なり。
新編江戸志に云。安楽山本佛寺 日蓮宗 身延末 柳島(横川ばた出村之内)
寶壽大明神弘法大師入唐の時彫刻
子授鬼子母神
略縁起に云。當寺子授鬼子母神は延寶五丁巳年四月八日。小網町三岐川より上らせ玉ふ尊像也。武州下谷池之端横田七郎右衛門といへる信心の俗士あり。深川より木村伊左衛門と云者の女を嫁り。男子五人を生ずといへども死す。七郎右衛門此事を嘆き雑司谷鬼子母神へ日参す。木村氏も此事を歎き小網町三岐川に出で。水垢離をとるに此尊を汲上驚き七郎衛門に授く。程なく妻女懐妊して男子を生す。依て世人子授鬼子母神と申ける。延寶六戊午年當寺納め奉ると也。(「東京名所図会」より)
本佛寺の周辺図