天羅山真盛寺|天台真盛宗西教寺の東京別院、三井家の菩提寺・三井寺
真盛寺の概要
天台真盛宗の真盛寺は、天羅山養善院と号し、天台真盛宗西教寺の東京別院です。寛永8年(1631)に湯島天神前に開創、天和3年(1683)谷中清水町に、元禄元年(1688)本所小梅寺町に、大正11年に当地に移転しました。当寺は三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺で、三井寺とも称されています。新葛西三十三所観音霊場31番です。
山号 | 天羅山 |
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院号 | 養善院 |
寺号 | 真盛寺 |
住所 | 杉並区梅里1-1-1 |
本尊 | 木像阿弥陀三尊立像 |
宗派 | 天台真盛宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
真盛寺の縁起
真盛寺は、寛永8年(1631)に湯島天神前に開創、天和3年(1683)谷中清水町に、元禄元年(1688)本所小梅寺町に、大正11年に当地に移転しました。当寺は三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、三井寺とも称されています。
杉並区教育委員会掲示による真盛寺の縁起
当寺は、天羅山養善院真盛寺と称し、真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院で、本山は滋賀県大津市坂本の西教寺です。本尊は阿弥陀三尊立像です。
「江戸本所真盛寺之記」によれば伊賀国(現三重県)出身の真観上人によって寛永8年(1631)に湯島天神前樹木谷(現文京区湯島)に開創されました。その後、寺域が御用地となって天和3年(1683)谷中清水町に、更に東叡山拡張のため元禄元年(1688)本所小梅寺町(現墨田区横川)にと移り、のち煤煙と浸水を避けて大正11年に現在の地に移転しました。
当寺は延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも称され、三井一門の香華院として知られています。
本所から移築した本堂は安永5年(1776)、元三大師堂は文政3年(1820)、中玄関書院は慶應元年(1865)と、いずれも区内では数少ない江戸時代の建物です。
また客殿・庫裡は明治天皇の行幸を仰ぐため細川侯爵邸を譲り受け、目白高田老松町から移築したものです。
境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村字中小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁財天を祀り放生池となっています。門前の木遣塚は元禄年間、江戸城普請のときうたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年五月三日に鳶職和泉会の有志によってうたい継がれています。
なお当寺には、「真観上人画像」、雪舟銘「商山四皓」図をはじめ数多くの文化財が所蔵されています。(杉並区教育委員会掲示より)
「杉並の寺院」による真盛寺の縁起
真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院である。当時の開創は、開山真観が、真盛上人開山の伊勢津の西来寺で得度、寛永5年関東に下り、川越仙波の無量寿寺中院末西明寺住職を経て江戸にのぼり、寛永8年、藤堂大学頭高吉の家来長谷川藤十郎の大きな援助により、湯島に江戸で最初の天台宗真盛派の寺を建立したことによる。開創間もなく豪商越後屋三井高利の帰依を受け、以来三井家の外護により、江戸期の5度の災害と移転を乗り越え、大正11年現在地に移転し、平成14年度には本堂の改修を終え、伽藍を整備し、現在に至っている。なお、慶応2年輪王寺宮より寛永寺末寺席大寺格を仰せ付けられている。
昭和6年造立の木遣塚は、元禄年間、江戸城普請のときにうたい始めたとされる木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年5月3日にはトビ職和泉会(保存会)による木遣節が同所でうたわれている。(「杉並の寺院」より)
「東京名所図会」による真盛寺の縁起
真盛寺
真盛寺は。中之郷業平町九番地に在り。天羅山と號し。養善院と稱す。天台宗にして延暦寺の末なり。寛永八年僧真観の創建にて。初め湯島天神樹木谷に在りしが。天和年中谷中に移り。元禄年間今の地に移れり。(「東京名所図会」より)
真盛寺所蔵の文化財
- 元三大師堂(杉並区指定文化財)
- 書院(杉並区指定文化財)
- 客殿庫裡(杉並区指定文化財)
- 紙本著色真観上人画像(杉並区指定文化財)
- 紙本著色四季耕作図屏風(杉並区指定文化財)
- 宝永元年銘石造青面金剛立像等
- 旧所在地よりの移転石仏多数
- 山岡鉄舟筆山号額
- 木遣塚
- 狩野芳崖作不動尊碑
- 真盛寺文書
- 呉服商越後屋(三井家)歴代墓
真盛寺の周辺図