戸倉三島神社|あきる野市戸倉の神社

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

戸倉三島神社|平安時代創建、戸倉城の鎮守、境内武多摩神社

戸倉三島神社の概要

戸倉三島神社は、あきる野市戸倉にある神社です。戸倉三島神社は、伊豆国三島神社を勧請して天徳2年(958)に創建、歴代武将の崇敬も厚く、15世紀を中心に活躍した在郷武士団に関する「武州南一揆文書」や、西多摩地域が小田原北条氏に支配された16世紀には、「後北条氏虎印二通」が残されている他、名跡を北条氏照に譲って戸倉城に入城した大石定久が戸倉城の鎮護として崇敬したと言います。江戸期には戸倉村の鎮守として祀られ、明治維新後には武多摩神社(旧不動社)、日吉神社を合併しています。

戸倉三島神社
戸倉三島神社の概要
社号 三島神社
祭神 大山祇命、八千矛命、大己貴命、少名彦名命、倉稲魂命
相殿 -
境内社 武多摩神社、熊野神社、日吉神社、稲荷社
住所 あきる野市戸倉414
祭日 4月17日
備考 -



戸倉三島神社の由緒

戸倉三島神社は、伊豆国三島神社を勧請して天徳2年(958)に創建、歴代武将の崇敬も厚く、15世紀を中心に活躍した在郷武士団に関する「武州南一揆文書」や、西多摩地域が小田原北条氏に支配された16世紀には、「後北条氏虎印二通」が残されている他、名跡を北条氏照に譲って戸倉城に入城した大石定久が戸倉城の鎮護として崇敬したと言います。江戸期には戸倉村の鎮守として祀られ、明治維新後には武多摩神社(旧不動社)、日吉神社を合併しています。

東京都神社名鑑による戸倉三島神社の由緒

天徳二年(九五八)二月二十八日、伊豆国三島神社の分霊を勧請したとい伝えられる。古来当社は源頼義、畠山重忠、宗良親王、新田義宗、足利成氏、太田道灌等武将の信仰が厚く、雁又、鏑矢、太万、薙刀、鎗等が奉納されている。長禄(一四五七―六〇)のころ、当地に居住したという小宮上野介や、天文年間(一五三二―五五)に、滝山城を養子の北条氏照に譲って、戸倉城へ隠居したといわれる大石定久が、当社を戸倉城鎮護の社として崇敬したと伝えられている。なお、当社には応永年間(一三九四―一四二八)に活躍した武州市一揆および後北条氏に関する古文書十四通を所蔵している。(東京都神社名鑑より)

「五日市町史」による戸倉三島神社の由緒

三島神社
戸倉本郷鎮守、城山四一四番地に鎮座する。祭神は大山祇命・八千戈命・大己責命・少彦名命・稲倉魂命である。創立は不詳であるが、社伝によれば、天徳二年(九五八)二月二十八日に、伊豆国の三島神社を勧請したものであるという。
古来、当社は源頼義、畠山重忠、宗良親玉、新田義宗、足利成氏、太田道灌等武将の信仰が厚く、杜宝として現存する雁又・鏑矢・太刀・薙刀・槍等はその奉納品であると伝えちれている。このうち、太刀一振り(長さ一尺余)には「天正十年・相州綱広」の銘があり、北条氏が寄進したと伝え、薙刀は穂の長さ一尺八寸二分(約五五センチ)で、「下坂」 の銘がある。また槍は三角槍で、長さ六寸五分(約二〇センチ)で、「奥州会津住良忠」の銘がある。
長禄(一四五七~五九)のころ、当地に居城したという小宮上野介や、天文年間(一五三二~五四)に、滝山城を養子の北条氏照に譲って戸倉城へ隠退したといわれる大石定久が、当社を戸倉城鎮護の社として崇敬したとも伝えられている。
神体は大山祇命の木像二尺八寸(約八五センチ)で一見毘沙門天のような容体である。相殿に熊野権現を祀っているが、これは昔、当社より少し西にあったもので、今でも旧跡がある。例祭は四月十七日。明治四十年に合社された日吉神社の山王祭は五月五日である。また、当社には長さ三尺九寸(一・一八メートル)の石棒がある。石質は石英粗面岩の灰白色のきれいなもので、頭部は一段とくびれ、先端部は段をなしている。欠損部分もなく、この種のものでは、外にあまりその例を見ないほどのものであるという。
境内末社の武多摩神社(明治元年、神仏分離令により改名)は、古くは不動堂といい、元は字本郷農家五〇戸の産土神であったという。
この不動堂の向拝に古鰐口があり、それには、
武州戸倉郷富蔵山明王宝殿常住之打金也
時永和元乙卯十二月八日
願主末長 敬白
の銘があったと『武蔵名勝図会』『新編武蔵風土記稿』に記しているが、現在はその所在を失っている。しかしこの文字は明らかに寺に関するものであり、もとは慶雲寺持ちの御堂であったが、光厳寺創立以来、同寺で管理奉祀していたものである。この堂の本尊、不動明王の像は、高さ六尺四寸(一・九四メートル)の立像で、相州大山寺高幡の金剛寺の不動像と同木同作とも伝えられる。ほかにも大小十数体の神像・仏像があるが、いずれも古風素朴なものである。
神職の宮本氏は、『新編武蔵風土記稿』によると、もとは中浦氏と称し、坂東八平氏の後裔と伝え、のち宮本氏と改めたといわれる。(「五日市町史」より)

新編武蔵風土記稿による戸倉三島神社の由緒

(戸倉村)三島明神社
社地除地、村の鎮守なり、社傳に當社は天徳二年戊午二月廿八日、豆州三嶋社をここに勧請すと、祭神もかの神社と同じく大山祇命にて、今木像長二尺八寸なるを神體とす、本社東向にて七尺に五尺ほど、覆屋二間に二間半、相殿に熊野権現を祀る、神體は徑八寸の鏡にて、其中央に神容を鑄出したるものなり、外に徑七寸の神鏡ありこの熊野権現はもと當社より少し西にあたりてたてりと云、今も猶その舊蹟存せり祭祀年々二月廿八日、
祠官宮本備後
本姪は中浦氏にて、坂東八平氏の遠裔なりと云、下文書にのする中浦上総助平顯宗は是が祖先なるべし、天正年中より宮本と改めしとなり、家に古文書十四通を蔵す、其文左のごとし、(文面省略)
又古き薙刀一振、鎗一筋を蔵す、何人より賜はりしなど云ことは詳ならず、薙刀の穂は長一尺八寸二分、柄六尺八寸あり銘に下坂の二字を鐫す、鎗は三角穂にて長六寸五分、中心は八寸なり、奥州會津住良忠と銘あり、柄のながさ九尺(新編武蔵風土記稿より)


戸倉三島神社所蔵の文化財

  • 三島神社石棒(市指定文化財)
  • 武州南一揆文書一〇通(市指定文化財)
  • 後北条氏虎印二通(市指定文化財)
  • 三島神社本殿(市指定文化財)
  • 武多摩神社本殿(市指定文化財)

三島神社石棒

長さ一・一八メートル最も太部分の直径は一二センチで、石質は石英粗面岩、出土地及び発掘地はいずれも不明であるが、三嶋神社付近から出土したものと思われる。灰白色のきれいな石で、頭部は一段とくぶれ、先端部は段をなしている。欠損部分もなく、ほぼ完全に保存されている縄文期の遺物である。(あきる野市教育委員会掲示より)

武州南一揆文書一〇通

武州の一揆は南武蔵の在郷武士団で、その有力集団が秋川流域(特に戸倉地区)にあり、一五世紀を中心に活躍した。当社には一〇通の関係文書がある。(あきる野市教育委員会掲示より)

後北条氏虎印二通

小田原に本拠を置いた北條氏照は天文一五年(一五四六)の川越の戦において上杉氏を破り、南関東一円を勢力下におさめた。三嶋神社神職宮本氏ほか戸倉地区の地侍が、北条氏の「御走衆」としてその支配に組み込まれた史実を示すものである。己未は永禄二年(一五五九)「如意成就」印としては初期に属する。(あきる野市教育委員会掲示より)

三島神社本殿

本社は社伝によれば、天徳二年(九五八)伊豆国三島大明神を勧遷したものといわれ、多くの武将の崇敬するところと伝えられる。
中世戸倉地区に多く住んだ武士系住民の信仰をあつめ武州南一揆に関する古文書を伝える。
本殿は一間流造で建築年代は不明であるが、全体として簡素な中世の古式をとどめ、絵様刻線や虹梁部分に江戸期の特徴を示す。中・近世複合の建築として貴重なものである。(あきる野市教育委員会掲示より)

武多摩神社本殿

武多摩神社はもと光厳寺塔頭慶雲寺持ちの不動堂であったが、明治初年の神仏分離令にもとづき武多摩神社と改名、三島神社の末社となった。社殿は三間四方で、江戸中期の仏堂の面影をとどめている。享保一八年(一七三三)建立の楞厳寺薬師堂と共通の絵様がみられ、建築年もそれに近いと推定される。
不動堂としての由緒は古く、中世地元戸倉地区をはじめ広く秋川流域地侍の帰依をうけた。
社殿内正面に不動明王像、右に毘沙門天像が安置されているが、毘沙門天像は平安末期の貴重な作といわれる。(あきる野市教育委員会掲示より)

戸倉三島神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「五日市町史」
  • 東京都神社名鑑