戸倉城跡。小宮氏が居城・大石定久の隠居城
戸倉城跡の概要
戸倉城跡は、あきる野市戸倉にある名所旧跡です。戸倉城跡は、武州南一揆(秋川谷から南多摩地域にかけての農村の武士集団)に際して小宮氏が居城としたと伝えられ、北条氏照に滝山城の名跡を譲った大石定久の隠居城としても使われた城跡です。東・南・北を険阻な崖で囲まれ、西は小峯につづく要害で、桧原城を遠望できることから、後北条氏時代には西方桧原城との中継を担っていたのではないかといいます。
名称 | 戸倉城跡 |
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見どころ | 都指定史跡 |
入場時間 | - |
入場料 | 無料 |
住所 | あきる野市戸倉 |
備考 | - |
戸倉城跡の由来
戸倉城跡は、武州南一揆(秋川谷から南多摩地域にかけての農村の武士集団)に際して小宮氏が居城としたと伝えられ、北条氏照に滝山城の名跡を譲った大石定久の隠居城としても使われた城跡です。東・南・北を険阻な崖で囲まれ、西は小峯につづく要害で、桧原城を遠望できることから、後北条氏時代には西方桧原城との中継を担っていたのではないかといいます。
東京都教育委員会掲示による戸倉城跡について
東京都指定史跡
戸倉城跡
戸倉城は一五世紀に武州南一揆(秋川谷から南多摩地域にかけての農村の武士集団)の一員として秋川谷に君臨した小宮氏が居城したことから小宮城とも呼ばれていた。その後、天文一五年(一五四六)頃北条氏照に滝山城の名跡を譲った大石定久の隠居城としても使われていた。定久が晩年を送った場所は城山山頂ではなく、この山城の山麓周辺であったと推定されている。
後北条氏時代の戸倉城は、甲斐の武田氏への押さえである檜原城との中継城の役割を持ったと考えられており、天正一八年(一五九〇)八王子城の落城とともに廃城となった。
発掘調査はされていないが、枡形虎口や竪堀などの遺構がよく保存されている。
この地域には、昭和二八年に指定された都立秋川丘陵自然公園の一部に含まれている。(東京都教育委員会掲示より)
境内掲示による戸倉城跡について
戸倉城跡
戸倉城は、標高434メートルの城山山頂を中心にして東西の峰に築かれた中世の山城である。東方の峰に城の中心となる曲輪(削平地)を設け、その下に数段の曲輪を備え、虎口(出入口)は枡形風に方向転換してから出入する防御上効果的な形態がとられている。山頂近くには現在でも水のわき出る水の手(境内の飲料水としての井戸)が残る。西方の峰を中心として築かれた部分は出丸に相当する。この峰上からは西方に桧原城が眺望できる。出丸のある山腹には堀切や竪堀に遺構が認められる。
戸倉城の築城時期は明らかではないが、土着の地侍と考えられる宮本氏や網野氏らが構成員となった南一揆集の活躍時期に使用されたものと思われる。尚、宮本家には南一揆に関する文書が残っている。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による戸倉城跡について
(戸倉村)城蹟
西方城山と云所なり、小宮上野介某が居住の跡なりといへり、高さ四町餘、登り八町ばかりの山にて、東南は峨々たる巌石を限り、西は小峯につづき、北も嶮岨によりて最要害の地なり、されど山上平衡の地は六七十歩にて絶頂に至りては纔に七八歩の地なれば、居城の跡ともおもはれず、或は云此山の東西なる光巌寺の境内、小宮が居城の地にてこの山は櫓などをおきたる地ならんと、されど其詳なることは知べからず(新編武蔵風土記稿より)
戸倉城跡の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿