八王子城跡。八王子市元八王子町にある名所旧跡

猫の足あとによる多摩地区寺社案内

八王子城跡。北条氏照築城、国指定史跡

八王子城跡の概要

八王子城跡は、八王子市元八王子町にある名所旧跡です。八王子城跡は、北条氏照が元亀から天正初め(1570年代)にかけて築城を開始、天正年間(1573-1593)に北条氏照が入城、豊臣秀吉の小田原攻めにより天正18年(1590)に落城した八王子城の城跡です。北条氏照は、当地を支配していた大石氏の婿養子となり、永禄初年(1559)頃に大石氏を嗣いで滝山城主となり、現埼玉県域に支配を拡大、永禄12年(1569)に武田信玄に滝山城を破られかけたことから、八王子城築城を開始したといわれています。その城域は東西約2km、南北約1km以上あり、現在約154haが国史跡に指定されています。

八王子城跡
八王子城跡の概要
名称 八王子城跡
見どころ 城跡
入場時間 -
入場料 -
住所 八王子市元八王子町3-2664-2
備考 -



八王子城跡の由来

八王子城跡は、北条氏照が元亀から天正初め(1570年代)にかけて築城を開始、天正年間(1573-1593)に北条氏照が入城、豊臣秀吉の小田原攻めにより天正18年(1590)に落城した八王子城の城跡です。北条氏照は、当地を支配していた大石氏の婿養子となり、永禄初年(1559)頃に大石氏を嗣いで滝山城主となり、現埼玉県域に支配を拡大、永禄12年(1569)に武田信玄に滝山城を破られかけたことから、八王子城築城を開始したといわれています。その城域は東西約2km、南北約1km以上あり、現在約154haが国史跡に指定されています。

境内掲示による八王子城跡について

八王子城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周八王子城の築城と落城
八王子城は、北條氏照によって築城された山城です。氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていました。その支配地は八王子はもとより、北は五日市・青梅・飯能・所沢の一部、南は相模原・大和から横浜の一部にまで及んでいました。
氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12年(1569)年武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれています。
築城の時期は明確ではありませんが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。天正16年(1588年)には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。
天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えました。(境内掲示より)

境内掲示による八王子城跡について

八王子城の縄張
八王子城の構造
八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びるおねや細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭です。城の構造は、山頂や尾根は平らに削りとって大小の曲輪を何段にも並べ、建物を作りました。谷間には盛土して平地とし、館を構え、麓には屋敷割をして城下町をつくりました。山中を流れる城山川は堀として利用し、橋を架けることによって、防御の大きな役割を担っていたと思われます。
八王子城跡は、約154haにもおよぶ広大な範囲が史跡の指定を受けていますが、その周辺にも当時の遺構が残っています。想像以上に大規模な縄張であったことがうかがえます。
八王子城は、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、いくつかの地区に分けられます。本丸など主郭を中心とした山頂付近とそれに続く尾根に造られた要害地区、御主殿跡など館跡と見られる居館地区、城下町となる根小屋地区に分けられます。その範囲は少なくとも、東西約2km、南北約1kmにおよんでいます。
現在でも、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切、土塁や通路の跡など、当時の遺構がよく残っています。八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡といえるでしょう。
要害地区
要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られています。山頂付近には本丸・松木・小宮曲輪があり、西側には詰の城と呼ばれる曲輪が残っています。
合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧を入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2ヵ所に当時の井戸が残されています。
居館地区
城山川沿いの山麓に御主殿と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪と呼ばれる曲輪が残っています。
御主殿跡は城主・北條氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。
御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです。
根小屋地区など
城山川に沿った、中宿付近が根小屋地区と呼ばれ、城への大手口として城下町の一部を形成していたと思われます。また、城山川の南側には細い尾根に連続して曲輪と堀切が並び、太鼓曲輪と呼ばれています。そのほか、小田野の曲輪群や、恩方方面の搦手口にも多くの遺構があり、城全体の守りを固めていたと思われます。(境内掲示より)


新編武蔵風土記稿による八王子城跡について

(元八王子村)
八王子城跡
村の西の山上なり、天正の初北條陸奥守氏照が築きし所なり、それまでは氏照郡中瀧山城に在城せしが、瀧には落ると云縁語あれば、いまはしとてこの城をきづきて移れりと云、想ふにその頃は甲州よりしばしば侵されしなれば、甲州口押への爲にとて引城せしにや、さて八王子権現なるを以て城の鎮守とせしにより、八王子城と號せしと云、又地名を神宮寺とも、権現別當の山號の字を以て慈根寺村とも云を以て、神宮寺の城とも慈根寺の城ともいへり、天正十八年落城の時のことも、諸記録に異同多し、先づその大概をいはば、城主陸奥守氏照は小田原に籠りて、留守には本丸に横地監物長次、中丸に中山勘解由左衛門家範、狩野主膳入道一菴、山下曲輪には近藤出羽守籠れり、寄手北國の大将前田利家・上杉景勝等押向ふ、秀吉寄手の兩大将無理の城攻あらんことを恐れ、太田小源吾一吉を目付としてさし下せり、六月廿三日北國勢朝がけに八王子の町口を押破り、霧間がくれに張番の輕卒等を撫斬にし、追て城外へ詰めよせたり、本丸は景勝、中の丸は利家と定て、松山の先方を案内者として、山下曲輪を攻めさせたり、夜中にかゝつて大に戰ふ、近藤出羽守奮戰して命を隕す、これをみて本丸、中の丸の雑兵等、肝を消して大半落行けり、中山勘解由左衛門が手に屬せし七百人のもの、僅に百餘人、輕卒二百人ばかり殘りけり、中山・狩野は殘る士卒を励まし、矢玉を放て防ぎければ、寄手死傷數をしらず、利家父子しきりに下知して士卒をすゝめ、金子丸を乗とり、金子三郎右衛門を討取けるにぞ、寄手機を得て惣軍中ノ丸にとぞかゝる、中山・狩野は士卒をひきゐて打て出で、自鎗を合せ太刀打してしばらく勇を奮ひけるが、もとより微勢なれば叶はずして引て入る、検使太田小源吾一番に塀を乗ければ、諸勢つづひて亂れ入る、中山狩野はこれまでと覺悟し、詰の城へ入て足弱兒女をさし殺し、腹切てぞ死にける、この上杉は東の方谷合、水の手を傳ひて一庵曲輪へ押登しに、城兵こゝをば油断して、皆中ノ丸に打集りければ、警固の兵一人もなし、思ふ儘に械楯逆茂木を引倒し、風上より火を放ちて焼立ける、藤田能登守信吉、甘粕備後守清長等、前登りし本丸へおし入り、散々に責かゝりければ、大将横地監物防ぎ兼て落行けるにぞ、利家・景勝眉目を施せしと云々、今その地をみるに、連山の内なる孤山の頂に要害の迹ありて、ただ東の一方のみ平地につづけり、中央の南の方に出羽山と云所あり、これ近藤出羽守が住居の跡なりと云、石垣等今に存せり、此山の西に瀧澤山・竹林山など云山あり、こゝにも石垣殘れり、この邊より要害の構ありしにや、村の詰入に升形のあとあり、又千畳敷の跡と云所あり、五十間四方ほどの所なり、こゝより嶮阻六七十間登りて、八王子権現の社あり、此邊の土地より今も糧米の焼たるもの出づと云、又井戸もあり、そこより少しく下りて馬場あり、馬冷し場と云所あり、そこより一町餘を登て、西の方を御殿の跡といへり、又その西に大嵐山と云山あり、その頂にむかし物見せしと云舊跡あり、此所は甚だ高き地にして、江ノ嶋の邊まで眼下にのぞめり、北の方に瀧ノ澤口と云所あり、大なる瀧をつ、城地ありし頃は唱惡しとて、霜降ヶ谷と云しとぞ、これ甚だ嶮阻の地なり、落城のとき此口より敗れたりと云、又その頃大手の通りと云所は、中宿の南の山の中腹なり、又東の方山の中腹に番屋と云所あり、いひ傳へはなけれども番所などの跡なることは勿論なり、城跡の圖上にのせたり、(新編武蔵風土記稿より)

八王子城跡の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿