滝山城跡。八王子市高月町にある名所旧跡

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滝山城跡。中世城郭跡

滝山城跡の概要

滝山城跡は、八王子市高月町にある名所旧跡です。滝山城跡は、大石氏の居城で、永禄初年(1559)頃に大石氏を嗣いだ北条氏照(大石源三氏明)が居城としていた滝山城の城跡です。永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めに際して、落城寸前にまで攻めこまれたことから、北条氏照は八王子城へ移り、滝山城は廃城となっています。大石氏は、木曽満仲を祖とする下柚木の名家で、久米永源寺や、永林寺を開基しています。

滝山城跡
滝山城跡の概要
名称 滝山城跡
見どころ 城跡
入場時間 -
入場料 無料
住所 八王子市高月町、都立滝山公園
備考 -



滝山城跡の由来

滝山城跡は、大石氏の居城で、永禄初年(1559)頃に大石氏を嗣いだ北条氏照(大石源三氏明)が居城としていた滝山城の城跡です。永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めに際して、落城寸前にまで攻めこまれたことから、北条氏照は八王子城へ移り、滝山城は廃城となっています。大石氏は、木曽満仲を祖とする下柚木の名家で、久米永源寺や、永林寺を開基しています。

境内掲示による滝山城跡について

都立滝山公園
解説
滝山城は、相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏第4代当主氏政の弟氏照の居城である。縄張りの見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。
北条氏照は、これまで「大石系図」などにより武蔵守護代の系譜を引く大石定久の養子として滝山城に入ったとされていた。しかし、近年の研究では、氏照は幼名を藤菊丸と称し、浄福寺城(市内下恩方町)を拠点に由井領を支配していた大石道俊(定久か)の子、大石綱周の養子になったと考えられている。
滝山城の築城年代や氏照の入城時期は不明な点があるが、永禄10年(1567)までには滝山城を居城としていたとみられる。
永禄12年(1569)10月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲した。拝島大日堂の森(昭島市)に陣取った武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城にしたと伝えられている。このとき氏照は、古甲州街道沿いの城下「宿三口」へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に自らの書状で伝えている。
その後、天正10年(1582)ごろから新城の築城工事が始められ、同15年までには滝山城から八王子城(市内元八王子町)へと移っていったのである。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による滝山城跡について

(高月村附瀧村)瀧山城蹟
此城は大石源左衛門定久が築て居住せし所の城壘なり、山城にて最嶮岨なる地なり、本丸及び千畳數などの名今に遺れり、西北の方は多磨川・秋川繼ひ続りて、懸崖の前は武蔵野を臨て絶景の地なり、すべて當時の渠壕等、今に處々に遺跡あり、其委きことは圖によりて見るべし、抑この源左衛門は木曾義仲の裔にして、累代關東管領上杉氏に屬して、久しく當國に住せり、定久に至りて本領由木領本郷より當城をきづきて移り住せり、天文十五年北條氏康川越夜軍の後、藤田右衛門佐等と共に降を乞て氏康に屬せり、定久後に氏康の二男を養子として妻あはすに其女を以てす、これを大石源三氏明と云ひ、後に陸奥守氏照と云へり、かくて此城氏照に譲て自身は入道して、心月斎道俊と號して近郷高月に隠居せり、永禄十二年、信玄小田原攻のきさみこの城にをしよせ、四郎勝頼を大将分にさだめ、北條方のもの跡より来るべき、おさへには道遥軒を大将分にして山縣三郎兵衛を置、内藤眞田は小田原筋の手當とし、信玄の旗本は拝嶋の森の内にそなへをたて、瀧山の城三の曲輪をせめちらす、陸奥守二の曲輪二階門へあがり、さいはいとつてこゝを最期と防ぐ、其日勝頼自身鎌鎗をとつて陸奥守防ぎける、二階門の下まで追つかへしつ、三度せりあひけるに三度ながら勝頼鎗を合す、その相手はともに師岡山城と云陸奥守が内の大剛の者なり、信玄聞て小田原より前にて、四郎典厩など討死あれば、いかがとて瀧山をまきほくしたるよし、【甲陽軍鑑】に見えたり、其後氏照おもへらく、瀧と云唱へには落るの縁ありて不吉なりとて、當郡今の元八王子へ新城を築きて移れり、これは永禄五年なりとも、天正六年或は同く十五年なりともいふ、前の城攻めのことを合せ考ふるに、永禄と云は年代はやきに似たり、扨當城は氏照のきて後廢したれど、今に城跡をのぞめば古のさま見るべし、因に云大石氏は當國の舊家なれども、今に子孫もあれど記録を傳へず、そのかみの記録に行はるゝものをみるに、信濃守定重・石見守憲重・同源左衛門憲儀などの名はみえたり、其系圖は柚木領下柚木村舊家伊藤傳左衛門の條をあはせ見るべし、其條駿河守重仲等が名は石碑等にものこれり、(新編武蔵風土記稿より)


滝山城跡の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿