虎柏山祇園寺|調布七福神の福禄寿、関東九十一薬師霊場、関東百八地蔵霊場
祇園寺の概要
天台宗寺院の祇園寺は、虎柏山日光院と号します。祇園寺は、深大寺を開創した満功上人が天平勝宝二年(七五〇)に創建したと伝えられ、また、深大寺縁起に見える右近長者の後裔といわれる温井氏の墓所だといいます。当寺の祇園寺僧形八幡神坐像は、鎌倉時代後期の製作と考えられ、調布市市文化財に指定されています。関東九十一薬師霊場10番、関東百八地蔵霊場101番、調布七福神の福禄寿です。
山号 | 虎柏山 |
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院号 | 日光院 |
寺号 | 祇園寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 調布市佐須町2-18-1 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 調布七福神の福禄寿 |
祇園寺の縁起
祇園寺は、深大寺を開創した満功上人が天平勝宝二年(七五〇)に創建したと伝えられ、また、深大寺縁起に見える右近長者の後裔といわれる温井氏の墓所だといいます。
新編武蔵風土記稿による祇園寺の縁起
(佐須村)祇園寺
境内除地、三段六畝、村の中央にあり、虎柏山日光院と稱す、天台宗、深大寺末、客殿四間に六間東向、虎柏山の三字を扁す、本尊三尊弥陀木像立身、長二尺餘、観音勢至、長一尺餘、開山は本山と同く満功上人、天平時寳二年の起立といふ、其他事跡を傳へず。
薬師堂。三間に三間半、客殿の東にあり、虎柏山の三字を扁す立身の木像、長一尺許、行基の作と云、并せて日光月光立身の木像あり、長一尺許、同作、又曇花大師の木像あり、いかにも古色なり、薬師の胎内に弘法真跡の心経一巻を蔵む、前立薬師佛立身の木像長一尺七八寸、是は恵心の作といふ、往古はこれより巽の方、冷田耕地の内虎ヵ鳩といふ所にありしを、後にこの地へ移せりとぞ、薬師免田一段六畝、今になを冷田耕地にあり。
天満宮。小社、薬師堂の北にあり。
神明宮。小社、薬師堂の東にあり、此地を神明山といふ。
閻魔堂。二間半四方、薬師堂の北に在。(新編武蔵風土記稿より)
「調布市百年史」による祇園寺の縁起
祇園寺(佐須)
佐須街道南、水田の中のわずか高くなった場所にある。虚狛山日光院祇園寺と号し、天台宗。
<開創>天平勝宝二年(七五〇)、深大寺と同じく満功上人と伝えられる。
<本尊>弥陀三尊(阿弥陀如来、木像立身二尺余、観音勢至長一尺余)
たんぼのわずかに高くなった中にあり、閑寂で特殊なふん囲気をもつ寺である。往古、佐須が柏の里と称したそのほぼ中央にあり、深大寺開創縁起に現われる右近長者と関連をもち、深大寺、佐須の歴史の中で忘れることのできぬ寺である。
当地出身の大久保清次は、その著『深大寺及附近の歴史』の中で、この寺についてくわしく考証し、深大寺白鳳仏の謎を解くのは、薬師堂の秘仏ではないかと述べている。なお、同氏は深大寺創建前ここが佐須の開拓者、長者の自宅寺ではなかったか、ともいっている。
この寺は、しばしば無住となり、荒廃のままとなって賊に荒らされ、タヌキやイタチ、またネズミの巣窟となって、経巻なども失われたという。
右に閣魔堂、左に薬師堂、正面に本堂がある。
<温井氏の墓>
温井氏は深大寺縁起に見える右近長者の後裔といわれ、墓も住職と同一場所にある。(「調布市百年史」より)
祇園寺所蔵の文化財
- 祇園寺僧形八幡神坐像(一躯)
祇園寺僧形八幡神坐像(一躯)
本像は、鋳鉄製の像である。僧形であるが、袖付きの衣を着て、胸前で両手を衣に包んで、両脚部を横に広げる像容から、神像として造られたものと考えられる。材質・構造は鉄造・一鋳・仕上は素地、像高は二〇センチメートル。
僧形八幡神像は、平安時代初期ごろ成立した神仏習合の古典的代表作である。
本像は、数少ない鋳鉄の神像彫刻として注目されるものである。制作期は鎌倉時代後期とみられている。(調布市教育委員会掲示より)
祇園寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿