前沢八幡神社|東久留米市八幡町の神社

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前沢八幡神社|尾張藩の柳沢御殿が造営された江戸時代初期創建、前沢村鎮守

前沢八幡神社の概要

前沢八幡神社は、東久留米市八幡町にある八幡神社です。前沢八幡神社は、尾張藩の柳沢御殿が造営された正保元年(1644)から延宝4年(1677)にかけて創建されたといいます。前沢村と呼ばれていた当地には、元弘年中(1331-1334)に新田佐兵衛佐義興公が勧請した新田大明神(新田神社)があり、元禄11年(1698)に八幡神社・新田神社共に焼失した際、新田神社を末社として八幡神社を再建、前沢村の鎮守社となったといいます。

前沢八幡神社
前沢八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 応神天皇
相殿 -
境内社 八坂神社、金刀比羅神社、末社十社(本社覆殿内)
住所 東久留米市八幡町2-8-17
祭日 9月15日
備考 前沢村の鎮守、南沢氷川神社の兼務社



前沢八幡神社の由緒

前沢八幡神社は、尾張藩の前沢御殿が造営された正保元年(1644)から延宝4年(1677)にかけて創建されたといいます。前沢村と呼ばれていた当地には、元弘年中(1331-1334)に新田佐兵衛佐義興公が勧請した新田大明神(新田神社)があり、元禄11年(1698)に八幡神社・新田神社共に焼失した際、新田神社を末社として八幡神社を再建、前沢村の鎮守社となったといいます。

新編武蔵風土記稿による前沢八幡神社の由緒

(前沢村)八幡社
社地除地450坪。除地畑7段2畝。村の西にあり。社6尺四方。上屋2間四方、拝殿2間に3間。東に向ふ。神体白馬に跨り、弓箭を持したる木像なり。長5寸許。尤近き世のものとみゆ。前に鳥居をたつ。例祭8月15日。村内延命寺の持。当社は先年尾張殿の旅館ありし比、造営せられしと云ふ。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による前沢八幡神社の由緒

当社はもと「八幡宮」と称す創立年代不詳なるも鎌倉合戦の将新田義興公の勧請と伝えらるる。又義興公の像(白馬に跨り弓を持したらう木像)を安置し新田大明神と称し神殿を建立しありといふ。両社火災により焼失したるも八幡宮を別当延命寺住職源雄元禄十八年八幡宮を再建す。新田大明神は末社十座の内に鎮座す。昭和二十九年参集殿を改修以来前沢村の鎮守として村民の崇敬篤く心のよりどころとなってきた。祭神応神天皇は神功皇后の御子で大陸文化を導入し古代文化興隆をはかられた御神徳がある。又母が子を抱き自分の代りとして此の世に降される母子神の信仰がある。(境内掲示より)

東京都神社名鑑による前沢八幡神社の由緒

元弘年中(一三三一-三四)新田佐兵衛佐義興公の勧請と伝えらる。また義興公の像を安置し、新田大明神と称する社殿を併立建立し、毎月十月十日を例祭としたことが記されている。元禄十一年(一六七八)九月六日、両社火災により焼失し、宝永七年(一七一〇)六月八日八幡宮別当延命寺住職源雄社殿を再建したものと伝えられる。新田義興公を祭神とする新田神社は境内末社として現存する。(東京都神社名鑑より)

東久留米市史による前沢八幡神社の由緒

八幡神社は、前沢村の社であったが、その創建は、前沢村に尾張藩の鷹場御殿が造営された正保元年(一六四四)から延宝四年(一六七七)のころといわれ、『新編武蔵風土記稿』にも、「八幡社(中略)村内延命寺の持、
当社は先年尾張殿の旅館ありし比、造営せられしと云ふ」とある。この尾張殿の旅館というのは、鷹場御殿のことであって、当時の前沢村の領主、米津公田盛は、御殿の造営に際して、村内の整備も行い、八幡社の造営もこの時になされたのであろう。
当社には、末社が一〇社あり、その一つ、新田神社は、祭神が新田義興で、かつては、八幡社とともに栄えていたようで、『社寺調書』には、
元弘年中、新田佐兵衛佐義興公ノ勧請ニシテ以来、当地ノ氏神ト称シ、尊崇シ奉ル、周テ村民ニ於テ持ニ今地新田神社ヲ創立シテ、毎年十月十日祭礼ノ式日トス。其後元禄十一戊寅年九月六日両社火災に罹り焼亡ス。依テ宝永七庚寅六月中、八幡宮別当延命寺住職源雄、新田神社ヲ再建セントセシ也。社殿、梁間四尺九寸、桁行六尺、元禄十二年中建設
と記され、新田神社がもともと村の氏神であったが、元禄一一年(一六九八)火災で焼失した後には、八幡宮が村社としての扱いを受けるようになったことが推定される。
八幡神社の現本殿は、一間社流造、総﨔造、桁行四.九尺、梁行六.四尺で、『社寺調書』に記されているとおりである。しかし、その建設年代は元禄一二年とは考えにくく、向拝虹梁の絵様、木鼻、蟇股、海老虹梁等の様式からみて、江戸後期、文化ごろかと思われる。(東久留米市史より)


前沢八幡神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東京都神社名鑑
  • 東久留米市史