旧延命寺|東久留米市八幡町にあった天台宗寺院

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旧延命寺|前沢御殿跡・楊柳沢御殿跡

旧延命寺の概要

東久留米市八幡町にあった天台宗寺院の延命寺は、楊柳山光明院と号していました。旧延命寺の創建年代は不詳ながら、寛永18年(1641)から延宝4年(1676)まで当地は尾張徳川家の鷹狩りのための宿泊所(前沢御殿・楊柳沢御殿)が設けられていたといい、楊柳山延命寺はそれに前後して創建したものと考えられます。延命寺は前沢八幡神社の別当を勤めていたものの、明治維新に伴い廃寺となったといいます。旧延命寺跡民間信仰石造物群、前沢御殿跡楊柳沢御殿跡)は東久留米市文化財に指定されています。

旧延命寺
旧延命寺の概要
山号 楊柳山
院号 光明院
寺号 延命寺
住所 東久留米市八幡町2-11
本尊 -
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



旧延命寺の縁起

旧延命寺の創建年代は不詳ながら、寛永18年(1641)から延宝4年(1676)まで当地は尾張徳川家の鷹狩りのための宿泊所(前沢御殿・楊柳沢御殿)が設けられていたといい、楊柳山延命寺はそれに前後して創建したものと考えられます。延命寺は前沢八幡神社の別当を勤めていたものの、明治維新に伴い廃寺となったといいます。

新編武蔵風土記稿による旧延命寺の縁起

(前沢村)延命寺
境内除地750坪。観音免除畑6段5畝。村の西よりにあり。天台宗、入間郡古尾谷村灌頂院の末。楊柳山光明院と号す。本尊弥陀木の立像にて長3尺許。脇士も木の立像にて各長1尺5寸許。本堂7間半に6間、東に向ふ。
観音堂。本堂に向て南の方にあり。堂は3間四方南向なり。観音は木の坐像にて長1尺ばかりなり。(新編武蔵風土記稿より)


旧延命寺所蔵の文化財

  • 旧延命寺跡民間信仰石造物群(東久留米市指定文化財)
  • 前沢御殿跡(楊柳沢御殿跡)(東久留米市指定文化財)

旧延命寺跡民間信仰石造物群

これらの石造物は、人々の信仰をあつめた旧延命寺の門前に並んでいたもので、向かって右から
地蔵菩薩 寛政七年(一七九五)
地蔵菩薩 年代未詳(十八世紀)
庚申塔 (年代未詳)
法印権大僧都亮孝墓塔 天保九年(一八三八)
地蔵菩薩 年代未詳
となっており、旧延命寺にかかわる数少ない資料です。
なかでも、法印大権僧都亮孝墓塔は市内でも唯一のもので、梵字の銘から見ると胎蔵界大日如来像と推測されますが、がっしりとした体躯と螺髪、厳しい容貌は通常の如来とやや異なる印象を与えます。僧位僧官や亮孝という僧名、略歴等が刻まれ、「天保九戌年正月三日寂」の銘が見られることから、これは僧亮孝の肖像を彫刻した墓塔と考えられます。(東久留米市教育委員会掲示より)

前沢御殿跡(楊柳沢御殿跡)

江戸時代には、調練した鷹を放って動物を獲る鷹狩が盛んでした。鷹狩の場所を鷹場といい、現在の東久留米市を含めた武蔵野一帯は徳川御三家の尾張家の鷹場でした。
その鷹狩の際の宿泊所が寛永十八年(1641)から延宝四年(1676)までこの場所の旧延命寺にあり、前沢御殿や楊柳沢御殿と呼ばれていました。前沢は村の名、楊柳沢は御殿の北を流れる川の名とされています。また、尾張の名古屋城の別名が楊柳城であるためとも言われています。
前沢御殿の見取図によると、前沢宿につづく東に門があり、中央には北に玄関をもつ藩主等が使う屋敷がありました。その北側には鷹匠と鷹がいる御鷹部屋があり、周囲は塀で囲われていたようです。
鷹狩は半月近く行われ、前沢御殿は三十年以上その宿泊所として利用されました。(東久留米市教育委員会掲示より)

旧延命寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東久留米市史