観音寺|総持寺の境外仏堂
観音寺の概要
真言宗智山派寺院の観音寺は、総持寺境外仏堂です。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 観音寺 |
住所 | 西東京市田無町5-7-5 |
本尊 | - |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
観音寺の縁起
観音寺の創建年代は不詳ですが、僧賢覚が開山したと伝えられます。明治維新後、西光寺(現総持寺)と合併し、現在は総持寺の境外仏堂となっています。
新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起
観音寺
除地、高6石1斗4升7合。同じ邊にあり。是も同宗同末(真言宗新義、豊島郡石神井村三宝寺末)なり。慈眼山蓮華院と号す。本堂7間半に5間半。本尊観音木の坐像長7寸許。開山は賢覚寂の年月詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
観音寺所蔵の文化財
- 観音寺の宝篋印塔(西東京市指定文化財)
観音寺の宝篋印塔(六十六部廻国塔)寛保3年(1743)建立
この宝篋印塔は、田無村の並木九郎左衛門が全国六十六ヶ所の霊場に法華経を写経し一部ずつ納める廻国巡礼をなし遂げて、寛保3年(1743)に造塔した供養塔です。
一般に宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」を納めた塔のことですが、のちに台座に「陀羅尼経」の一部を漢字や梵時で記し、さらに金剛界・胎蔵界の四方仏を刻した塔身をかさね、供養塔になります。また墓塔にもなりました。
もともと宝篋印塔は、笠が階段式で四隅にある突起の飾りが特色でしたが、江戸時代に方形屋根型になり、塔全体が華やかな意匠をまとうようになりました。
この宝篋印塔は、江戸時代中期の特徴を最もよくあらわしているもので、とくに陀羅尼(梵字)全文を刻していることは、他に例が極めて少なく信仰の厚さを物語るものです。
総高3.5m余ありますが、250年もの間、風雨に耐えて欠損することなく完全な姿で保存されています。
平成8年3月。西東京市教育委員会(西東京市教育委員会掲示より)
観音寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿