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正福寺|東村山市野口町にある臨済宗建長寺派寺院、国宝正福寺地蔵堂

正福寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の正福寺は、金剛山と号します。創建年代は不詳ですが、心月禅師(文永年中1264-1274示寂)を請じて、北条時頼(或いは北条時宗)が開基となり創建したと伝えられます。仏殿(地蔵堂)は、北条時宗が罹病した際に夢中で地蔵菩薩より貰った丸薬により快癒したことから、時宗の寄進により建立したといわれ、国宝に指定されているほか、仏殿(地蔵堂)本尊、千体地蔵尊など数多くの文化財を所蔵しています。狭山三十三観音霊場の13番です。

正福寺
正福寺の概要
山号 金剛山
院号 -
寺号 正福寺
住所 東村山市野口町4-6-1
本尊 千手観音菩薩坐像
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 国宝地蔵堂、狭山三十三観音霊場の13番



正福寺の縁起

正福寺の創建年代は不詳ですが、心月禅師(文永年中1264-1274示寂)を請じて、北条時頼(或いは北条時宗)が開基となり創建したと伝えられます。仏殿(地蔵堂)は、北条時宗が罹病した際に夢中で地蔵菩薩より貰った丸薬により快癒したことから、時宗の寄進により建立したといわれ、国宝に指定されているほか、仏殿(地蔵堂)本尊、千体地蔵尊など数多くの文化財を所蔵しています。

新編武蔵風土記稿による正福寺の縁起

正福寺
小名中井にあり。金剛山と号す。臨済宗、鎌倉建長寺の末なり。今御朱印10石を賜ふ。開山心月禅師文永年中示寂す。開基は北条相模守時頼なりと云。今按に下に出せる佛殿も時宗建立なりと云へば、開基は時宗なるにや。本尊観音の坐像にて長1尺ばかり。本堂8間に5間半なり。
門、本堂の正面にあり。
佛殿、5間四方芽葺きなり。本堂に向て左の方にあり。千体地蔵の像を安す。その長或は7寸、或は5寸の小像にて木にて造れり。相傳ふ当寺は昔北条時宗(或は時頼と云)本堂及び諸堂を建立せしが、この堂のみ残りて、自余の堂は共に祝融の災にかかりしとなり、其結構のさま普通の堂とは大にことなり。問はずして故ある堂とはしらる。
鐘楼。本堂に向て左の方にあり。9尺四方、鐘銘の末に享保12年とほれり。
稲荷社。本堂に向て左の方にあり。2間に9尺東向なり。白幣を神体とす。前に鳥居あり。
寮。門を入て左にあり。(新編武蔵風土記稿より)


正福寺所蔵の文化財

  • 正福寺千体地蔵堂(国宝)
  • 正福寺千体地蔵堂本尊(東村山市指定有形文化財)
  • 正福寺千体小地蔵尊像(東村山市指定有形文化財)
  • 貞和の板碑(東村山市指定有形文化財)
  • 正福寺山門(東村山市指定有形文化財)
  • 千手観音菩薩坐像(本尊)
  • 阿弥陀如来坐像
  • 柄鏡(鏡台付)
  • 北条時宗之位牌
  • 天蓋供養塔之碑
  • 地蔵堂修覆供養塔

正福寺千体地蔵堂と堂内について

この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建造物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。
千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間、花頭窓、屋根の反りなどに特徴があります。昭和8年-9年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、室町時代の応永14年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。
地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化8年(1811)、江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。
また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木像が奉納され、堂内の天井に近い長押に置かれ、千体地蔵堂の名もここに由来します。祈願する人は、小地蔵尊像を一体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に一体添えて奉納するというもので、像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大ささは10cmから30cmほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は、地元は勿論、前沢・国分寺・小金井などに及んでいます。(東村山市教育委員会掲示より)

正福寺千体地蔵堂本尊

地蔵堂の本尊は、木像の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像の高さ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。
寺に伝わる縁起には古代のものとされ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが、昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。(東村山市教育委員会掲示より)

正福寺千体小地蔵尊像

正福寺千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内は、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
背面に文字のあるものは、約300体で、その年号は、正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は東村山を中心に、所沢、国分寺、小金井にまで及んでいます。(東村山市教育委員会掲示より)

貞和の板碑

この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmもあります。
碑面は釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年己丑卯月八日、帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。
この板碑はかつては前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したのでこれらを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したものです。(東村山市教育委員会掲示より)

正福寺山門

言い伝えによると、正福寺は何度か火災にあっている。江戸期になって再度の復興が行われたのは月山禅師の代であった。「建長寺史」では寛文4年(1664)に晋山して、宝永3年(1706・「野口村金剛山正福禅寺世代記」)に示寂するまでの間に諸堂宇とともに山門も建てたので、中興とされている。天明4年(1784)の「野口村絵図」には、本堂、庫裡、地蔵堂、鐘楼等とともに、山門が描かれている。昭和48年に行われた解体修理の際、親柱柄から「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建□ (者)也、此時住寺号月山(以下略)」の銘文が発見されたことから、建立年代も元禄14年(1701)、月山の代に建立されたものであることが確定した。この山門の建築形式は、四脚門で、切妻、昭和48年の修理の際に茅葺から茅葺形銅板葺に改修された。柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られることから、かつては全体が朱で塗装されていたものとみられる。禅宗寺院では、伽藍の中門は正式には三解脱門、略して三門と呼んでいるが、正福寺の門は、単独であり、かつて複数であった痕跡も今のところ認められないので、山門としている。(東村山文化財案内より)


正福寺の周辺図


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参考資料
  • 新編武蔵風土記稿