千手山浄福寺|八王子三十三観音霊場、多摩八十八ヶ所霊場
浄福寺の概要
真言宗智山派寺院の浄福寺は、千手山普門院と号します。浄福寺は、朝倉氏出自の広恵大師が当地に安置されていた千手観音像に因縁を感じて文永年間(1264-1274)に創建したといいます。大永4年(1524)上杉憲政の兵火に罹り浄福寺城と共に焼失したものの、北條氏康の助力を得た大石道俊・憲重父子が翌年再興、徳川家康の関東入国に際しては寺領10石の御朱印状を天正19年(1591)に受領、武蔵・甲斐に14ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院でした。八王子三十三観音霊場4番、多摩八十八ヶ所霊場66番です。
山号 | 千手山 |
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院号 | 普門院 |
寺号 | 浄福寺 |
住所 | 八王子市下恩方町3259 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
浄福寺の縁起
浄福寺は、朝倉氏出自の広恵大師が当地に安置されていた千手観音像に因縁を感じて文永年間(1264-1274)に創建したといいます。大永4年(1524)上杉憲政の兵火に罹り浄福寺城と共に焼失したものの、北條氏康の助力を得た大石道俊・憲重父子が翌年再興、徳川家康の関東入国に際しては寺領10石の御朱印状を天正19年(1591)に受領、武蔵・甲斐に14ヶ寺を擁していた中本寺格の寺院でした。
新編武蔵風土記稿による浄福寺の縁起
(下恩方村)
浄福寺
境内除地、一萬千三百九十一坪半、松嶽にあり、千手山普門院と號す、新義眞言宗にて、横見郡御所村息障院の末なり、開山を廣惠大師と云、當寺来由記の略に云、大師姓は朝倉氏、その先世々和州に住して官禄も賤からざりしに、師の父某の時に至りて、繼子あらざりければ、かねて信ずる所の千手觀音に詣でて、一子をえんことをいたく祈誓せしに、其後一子を生めり、則この大師なり、然るに故ありて罪をかふむり、親子ともに上總國周集郡に配流せられ、父はほどなく身まかりしにより、やむことを得ず、其母誌を具し、あたり近き精舎に投じて薙髪せしめ、名を廣惠とよぶ、長ずるに及びて、ふかく禅寂にいり、自から所生の因縁に感じて、千手觀音を信仰すること淺からざりしが、或夜の夢に異人来て告て曰、汝靈像を得んとおもはば、よろしく名刹を順行すべしと、よりて普く諸國を遊歴せんとして、當國まで来りしに、この里に千手の靈像ありときゝて拝視するに、彫刻世の常にあらざれば、主翁にその来由を尋るに、翁が云、昔天平の頃行基大士遊行の日、彫刻し置くところなりと、師奇異の思をなし、これさきの霊夢の應に疑ひなしとて、終にこの地に跡をとどめ、主翁とゝもに力をあはせ、一宇を營みて安置せり、時に文永某年なり、近郷の人民この由をきゝ、よりつどひて信仰するもの多かりければ、不日に一の大伽藍となれり、其後二百六十餘年の星霜を歴て、大永年中木曾義仲の苗裔、大石源左衛門尉入道道俊と云もの當所に居城を構へし比、繼嗣のあらざることを深く痛み、この像に一男を設けんことを祈りしほどに、果して一子を産す、是源四郎憲重也、後石見守と改名せり、かゝる靈驗を得て、道俊感喜之餘り、そこばくの田地を寄附して、信心いよいよ深かりしとなり、然るに大永四年十二月十四日の夜、上杉憲政襲ひ来りて城郭を放火せし時、堂塔僧坊も片時の間に烏有となれり、大石父子は利を失ひて相州小田原なる北條氏康に投じけるが、翌年二月中旬氏康が羽翼によりて、再び當所に歸り来りて、堂舎以下をも造立せり、然るにこの地狭隘いして、戰争の利よろしからざるまゝに、大石父子は更に地をえらみて、瀧山に城をとり立て移り住せり、天文・永禄年間の記録に瀧山城といへるは是なり、昔の城跡は本堂の後背、上り四丁餘にあり、礎石・升形・本丸・外郭等の跡、今尚まのあたり存せり、又村に傳ふる舊記をみるに、天正十八年六月廿二日、羽柴筑前守利家、瀧山の城郭放火せし時、當寺も甚危かりし、村内眞福寺の住僧が計ひによりて、寺中不入舊領安堵の免状をさづかり、打續きて御料の地となりし比、天正十九年先規のごとく、寺領十石及寺中不入の御朱印を賜はりしといへり、
本堂。門に入りて正面にあり、十一間に六間半、本尊大日木の坐像長一尺五寸なるを安す、寺の来由記によれば、昔は千手觀音を本尊とせしとみゆ、何の頃よりか今の如く別に觀音堂を造りしにや詳にせず、
鐘樓。本堂に向て左の方にあり、八尺に九尺、鐘の圓徑二尺三寸長三尺六寸、寛保四年鑄造の鐘なり、銘文はあれどこゝにはりやくせり、
中門。本堂の前にあり、冠木門なり、
惣門。二間四方、境内入口にあり、
觀音堂。本堂の西三百間許にあり、三間四方の堂にて、千手觀音長二尺三寸なるを安す、行基菩薩の作なりと云傳ふ、木像にして彩色を用ゐず、いと古色なり、則前にしるせる觀音堂の昔の本尊なるべし、今浄福寺に觀音堂の古き棟札を持傳ふ、その文左の如し、(棟札文省略)
白山社。本堂に向て左にあり、小社なり、境内の鎮守なり、
天神社。同じ邊にあり、これも小社なり、(新編武蔵風土記稿より)
「八王子市史」による浄福寺の縁起
浄福寺(下恩方村―下恩方町三、二五九)
この寺は、元来文永年間(一二六四~一二七四)広恵大師の草創と伝えられる千手観音堂(下恩方町三、二四〇番地)の別当寺であり、古くは「千手山普門院城福寺」と称したが、江戸後期には浄福寺と改称されている。大永五年(一五二五)大石道俊および憲重父子が開基となり、中興開山は長尊(永録四年 一五六一 一二月二九日寂)で、長尊の法流は東密三宝院流の末流たる意教流である。本尊大日如来、天正一九年(一五九一)一一月御朱印一〇石を賜わり、境内一一、四〇〇坪の古刹で、同村大久保稲荷社の別当であった。塔中に満蔵院(江戸初期建立)があったが、文化文政以前に廃寺となった。明治四〇年東福寺薬師堂(下恩方町二、一三三)および明王堂(下恩方町一、二二七)を合併した。山上の千手観音堂内厨子は室町時代の作で、昭和三七年三月都重宝に指定された。(「八王子市史」より)
浄福寺所蔵の文化財
- 浄福寺観音堂内厨子(東京都指定有形文化財)
- 浄福寺城跡(新城)(市指定史跡)
浄福寺観音堂内厨子
『新編武蔵風土記』にある観音堂の古棟札の写しから大永五年(一五二五)観音堂が建立されたことがわかり、この厨子もその頃造られたと推察されます。厨子は本尊の千手観音像を安置するための入れ物で、建物の形を模しています。四方に丸柱を立て、正面には両開戸を備えます。扉は、桟木を組んで枠とし、間に板を嵌め込んだ浅桟戸の形式ですが、桟に鋭い山形の鎬(しのぎ)があるのが古式で、関東や東北地方の室町時代の遺構に特有のものです。組物と屋根は後補材ですが、その他の大部分は、当初のものを良好に保存しています。室町時代の様式と、地方性を備える数少ない例として貴重です。
もともとは山頂の観音堂にありましたが、昭和五三年に本堂に移設されました。(東京都教育委員会掲示より)
浄福寺城跡(新城)
浄福寺城は別名新城、千手山城などと呼ばれ、関東山地から続く丘陵尾根の東端を利用して築かれた山城です。この城については不明な点が多く、築城年代は定かではありません。築城者は江戸時代の地誌によると、大石氏といわれています。
大石氏は木曽義仲の子孫といわれ、関東管領上杉氏の武蔵守守護代を務めた多摩地域の有力領主です。高月城や滝山城なども築城したといわれています。
城跡には尾根を切って作られた堀切や段上に作られた曲輪など多くの遺構が見られ、中世城郭として、また大石氏の経緯を知るうえにも貴重な城跡です。(八王子市教育委員会掲示より)
浄福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「八王子市史」