息障院。平将門調伏の護摩を修した吉見護摩堂、源範頼の館跡
息障院の概要
真言宗智山派寺院の息障院は、岩殿山光明寺と号します。息障院は、天平年中(730年頃)に行基菩薩が開基したとも、或は大同年中(806年頃)に坂上田村麻呂将軍が開基したとも伝えられる古刹です。古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、その功により息障院の号を下賜されたといいます。江戸時代には慶安元年(1648)に寺領20石の御朱印状を拝領、末寺120ヶ寺超を擁する大寺だったといいます。武州八十八所霊場38番です。
なお、当地は横見郡と呼ばれていた吉見町一帯を領有していた源範頼(尊称吉見御所)の居館跡です。
山号 | 岩殿山 |
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院号 | 息障院 |
寺号 | 光明寺 |
本尊 | 不動明王像 |
住所 | 比企郡吉見町御所146-1 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
息障院の縁起
息障院は、天平年中(730年頃)に行基菩薩が開基したとも、或は大同年中(806年頃)に坂上田村麻呂将軍が開基したとも伝えられる古刹です。古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、その功により息障院の号を下賜されたといいます。江戸時代には慶安元年(1648)に寺領20石の御朱印状を拝領、末寺120ヶ寺超を擁する大寺だったといいます。
新編武蔵風土記稿による息障院の縁起
(御所村)息障院
新義眞言宗、山城國醍醐報恩院末、岩殿山光明院と號す、寺領二十石の御朱印は、慶安元年賜ふ所なり、岩殿山の觀音も元は當寺にて進退せしが、程隔て便悪き故、別當職を安楽寺へ譲りしと云、本尊不動、弘法大師の作、長二尺許の坐像なり、相傳ふ昔平将門反逆の時、朝敵調伏の爲、勅ありて當寺及び長野村長久寺、小俣村雞足寺の三ヶ寺を創立ありしと、明證はなし。(新編武蔵風土記稿より)
吉見町・埼玉県掲示による息障院の縁起
息障院
当山は、真言宗智山派に属し、岩殿山息障院光明寺と称する。
開創は古く、天平年中(七三〇年ごろ)行基菩薩によるといわれている。また、大同年中(八〇六年ごろ)坂上田村麻呂将軍の開基によるとも伝えられている。
古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、その功により息障院の号を下賜されている。
現在の境内地は、源範頼の館跡といわれ、県の指定旧跡となっている。
本尊は不動明王であり、平安時代末~鎌倉初期のもので定朝様式を伝える傑作といわれ、県指定の有形文化財である。
当山の全盛期は、戦国時代から江戸時代で、その当時は、末寺百二十余か寺を数え、隆盛を極めたものである。(吉見町・埼玉県掲示より)
息障院所蔵の文化財
- 源範頼館跡(県指定重要文化財)
- 本尊不動明王坐像(県指定重要文化財)
- 地蔵堂
新編武蔵風土記稿による源範頼館跡について
(御所村)
居所蹟
相傳ふ蒲冠者源範頼の城蹟なりしと、岩殿觀音縁起に、範頼幼穉の頃平治の亂に没落し、岩殿山に遷り彼地に生長す、兄賴朝志を得て、後範頼當所を領して此所に居と云、【東鑑】にまさしく範頼の住所を記さずといへども、治承五年閏二月志田三郎義廣、鎌倉を謀る時、小山朝政と下野國登々呂木澤の邊にて戰ひしに、下河邊行平等、古我高野等の渡を固む、範頼も同来て、朝政が勢いに馳加ると云へり、急卒の朝馳来るときは、遠路を隔しにはあらじ、當所より高野邊までは相距こと遠からず、當時範頼當所に居しにや、吉見系圖を案るに、範頼の男阿闍梨範國吉見を氏とし、次郎と稱すとあり、想に此人建久四年範頼生害の後爰に来り、其子孫相繼て此所に住せしなるべし、範國の男爲賴其孫義世、永仁四年隠謀顯て誅せられし由、系譜に見えたり、又【東鑑】文治三年十月十三日の條に、畠山次郎重忠が所領伊勢國沼田御厨を召放たれ、吉見次郎賴綱に充行はる云々と戴、これ範頼の男にや、されど系譜には見えず。(新編武蔵風土記稿より)
息障院の周辺図